第15回 鉄球と鎖(最終回)
「十年経った 千粒の涙を流した 見てみろよ 俺のひどい有様を 折れた鼻に砕けた心 空っぽのジンのボトル」
ソーシャル・ディストーションの「ボール・アンド・チェイン」というこの曲は、運に突き放されて、深みにどんどんはまり、抜け出せない苦しみを歌う。このバンド名は直訳すると、「社会の歪み」となり、ボーカルのマイク・ネスは、刺青に覆いつくされ、凄みのある風貌をしている。そんなハードさとは対照的な、青年の繊細さのある歌声と抜け感のあるロカビリーな音楽だ。
ボール・アンド・チェイン(鉄球と鎖)は、かつて囚人や奴隷を拘束するために使用されていた用具の一つだ。足に重い鉄球が鎖でつながれると、当然歩くのが難しくなり、逃亡することができなくなる。そのため、英語で、“a ball and chain” は、物事を行う自由や能力を奪う、もしくは制限する何かを比喩する。
「取り去ってくれ 取り去ってくれ この鉄球と鎖を取り去ってくれ 俺は寂しくて疲れた もうこれ以上の痛みに耐えられない」
真空の中にポツンと存在することができない私たちは皆、常に無数の鉄球と鎖に拘束されている。
その中には、周りからのハラスメントや差別や偏見といった、外部からの圧力もある。自分の過去の過ちや傷の記憶という、他人には見えにくいものもある。アルコールや薬など特定の何かへの依存、ギャンブルや窃盗や自傷などの行為への依存、毒々しい関係にある誰かへの依存もある。そもそも酒や薬への依存の類は、もともとの根源にある鉄球と鎖から逃れようとしているうちに、いつの間にか新たにがんじがらめにされてしまった場合が多いのかもしれない。不運が重なり、あまりにも辛くて耐えがたくなった時に、手を伸ばしたものが逆に自分を滅ぼしていく。そして運のほんのした違いが、その時、自分を支えてくれる何かが、誰かがいるかいないか、助けを求めることができるかできないかなど、そんな小さな違いが、明暗を分けるのだろう。
自由になりたいのに、自由に生きたいのに、苦しい。これさえ自分から引き剝がすことができたら。何か、別のやり方が、生き方が必ずあるはずだ。
「完璧な人生を見つけるために 俺は求め続けた 新品の車に新品のスーツ 奥さんまで手に入れた でもどこへ向かっても 自分からは逃れられなかった 一生走り続けても どこへも行けないことがある」
がんじがらめになっているのは辛い。しかし、鉄球と鎖の存在を意識し、向き合い、凝視し、それを懸命に自分で、一つ一つ取り除こうともがくことでしか、私たちは自由になれない。
鉄球と鎖につながれているのに、それを頑なに認めなかったり、それからもう逃れる欲求がなくなったり、感覚が麻痺して、それがむしろ安全で心地よいと完全に甘んじてしまったら、どうだろうか。家畜のように飼いならされてしまったら。そんな状況になってしまうよりも、まだ、鉄球の重みに苦しみ、あがいている方が、あがいているうちが、救われる余地もあるのではないか。
そして鎖につながれながら、自分を痛めつけて、あざだらけになって血を流し、無我夢中に身動きを取ろうとするよりも、まず自分のつながれている鎖を一本ずつ摘まみ上げて、辛抱強く、一本ずつ解き放していきたい。
周りに支えてもらい、助けてもらうことはできても、結局は自分を救えるのは自分だけだ。他人には分からないものだから。
拘束される苦しみを憂う歌詞なのに、この曲はなぜか希望をくれる。孤独感や、その穴を埋めるために依存や中毒に流れてしまうような脆さは、万人に潜むもので、それを感じ、もがいているのは自分だけではないと励ましてくれるからなのかもしれない。
呪縛から解き放たれるための一歩を踏み出すときに、かけたい一曲だ。
赤地葉子
・Ball and Chain, Social Distortion
(この記事は、2022年2月前半に執筆されたものです。)