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赤地葉子のつれづれロック

第7回 弾圧に刃向かう

本連載に再登場のザ・クラッシュの2曲目は、アルバム「ロンドン・コーリング」に収録されている「クランプダウン」。

「生きた魂を持っている者は、弾圧のために働くことなんてできない」

「怒るんだ、怒ることは力になる、それを使うことができると知っているかい?」

「他人が来て自分のことを救ってくれると信じているのは、愚か者だけさ」

ジョー・ストラマーのボーカルも、歌詞の内容も「男」という感じの曲だが、弾圧に刃向かい続けてきたのはむろん男性だけではなく女性もしてきたことだった。今回はセクシュアル・アンド・リプロダクティブ・ヘルス&ライツ(SRHR)の歴史を少し振り返ってみたい。

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現在においてもSRHRは、国際開発の分野でも、パブリックヘルスの分野でも、世界中で論争の的となり、物議を醸す概念である。例えば、宗教や政治的な理由で、同性愛を認めていない国や若者の未婚のセックスなど婚外の性活動を認めていない国の政府などはセクシュアル・ライツという用語の使用を避ける傾向がある。

日本では、和訳である「生殖に関する権利」よりもカタカナ表記の「リプロダクティブ・ライツ」が用いられる傾向がある。輸入概念を日本語に訳してしまうよりも、そのままカタカナ表記することで、自己主張の激しい女性と見えぬよう、できるだけ世間の波風を立てぬよう、不慣れな外国語の言い回しのままにしたという活動家たちの配慮もあったという[i]。性と生殖を女性の「権利」とすると、どれだけ大衆から懐疑と敵意の目にさらされるのか身をもって経験した彼女らの戦略である。言い回しまでにも細心の気配りをしなければならなかった。

打って変わって、アメリカでは、20世紀初頭から、マーガレット・サンガーにより意図的に、過激な表現による挑発に基づくバース・コントロール運動が繰り広げられた。怒りを力にして使い、弾圧に刃向かった、ザ・クラッシュ顔負けの筋金入りな彼女について追ってみよう。

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1910年代初頭、ニューヨークへ渡った移民たちが密集して暮らすスラム街に呼び出された看護師、マーガレット・サンガーは、足早に患者のもとへ向かった。散らかった狭い部屋には、20代後半の女性が自分で妊娠中絶を試みて失敗し、気を失って横たわっていた。動揺したトラック運転手の夫は、妻をどうか助けてくれと懇願し、かたわらでは三人の小さな子供たちが泣きじゃくっている。その後三週間にわたり、サンガーは医師とともに献身的に敗血症の治療に携わり、ようやく患者は回復してきた。

最後の訪問で、まだまだ弱っている患者は尋ねた。「もう一度妊娠したら、私は死ぬんでしょうか」。その可能性はあると医師は頷く。「自分でもそれはわかるんです。でもどうすれば、妊娠しないですむんでしょうか」。医師は肩をすくめた。彼女にできることはない。医師としてできることもない。旦那さんに屋根の上で眠るよう伝えなさい、そう言い残して医師は去っていった。

扉が閉まった後、涙を流す彼女を前に、サンガーは同様に苦しんでいる、おびただしい数の女性たちの影を感じ取ったのかもしれない。また、22年間で11人の子どもを産み、50歳手前で亡くなってしまった、自分の母親の姿も重なったのかもしれない。数カ月後、同じ女性の夫からすぐ来てほしいという電話がふたたびあり、サンガーは駆けつけた。しかしすでに手遅れであった。彼女は命を失った[ii]

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サンガーはこの後、看護師という職を離れ、避妊を合法化するために生涯をかけた。それは何十年にもわたる長い戦いであった。当時、アメリカにはコムストック法という、猥褻な物もしくはそれに関連する情報の郵送を禁じる法律があり、「猥褻な物」の定義には、避妊と妊娠中絶に関する資料も含まれていた。望まない妊娠をなくし、女性を解放することで社会改革が起こると信じたサンガーは、まずこの政府による検閲に挑む。

彼女は避妊を、フェミニズムの問題というよりも言論の自由の問題として捉えていた。当初はかなり挑発的な、いや、むしろ過激な路線をサンガーは選んだ。その名も『女性反乱The Women Rebel』という月刊新聞を発行し、"No Gods, No Masters"(神も主も無用)をスローガンに、女性が自分の体を所有する必要性を説き、避妊を広める活動を推進した。"A woman's body belongs to herself alone"(女性の体は、彼女だけのものである) と説いた。

このアナーキーな新聞は、明確な目的を持って発行された。避妊に関する情報の普及を禁止するコムストック法に異議を唱える、という目的を。当時、郵便局は、単に文書や小包を配達するという機能以外の役割を担っていた。  郵便は、今のインターネットのような役割を果たし、人々にとって、普段の生活の中ではふれることのなかった思想や情報に接する機会を与えるものであった。そのために、コムストック法は、郵便局に、その法が掲げる倫理や道徳や宗教観を押しつけ、人々を制裁する役目を課すことになった。ポルノグラフィと同様に「猥褻な物」とされた避妊に関する情報を含むサンガーの新聞は間もなく郵便局により差し止められ、避妊についての情報を郵便で送ったとして彼女は告発された。

サンガーは裁判を避けるためにイギリスへ渡った。滞在中に交流を持った新マルサス主義者や、性科学者のハヴロック・エリスに影響を受け、アメリカへ戻った後、1916年にアメリカ初の避妊クリニックをブルックリンに開いた。開設から十日も経たないうちに逮捕されたサンガーは、その後も幾度も逮捕、裁判、控訴を繰り返しながら、屈することなく活動を続け、闘った。彼女の活動に対する認知度も上がり、アメリカ全土において産児制限の運動に火がついて、多くの支援者を獲得し、勢いを増していった。

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行く先々で地方政府関係者たちは、あらゆる手を使ってサンガーの活動を阻止しようとした。当時、検閲の中心核と言われていたボストンでは、サンガーは市長から、公に産児制限について話をしたら逮捕すると脅されていた。1929年4月、言論の自由をテーマにした集会が、由緒ある集会所であるフォードホールフォーラムで開催された。ボストンの検閲の標的となった作家、劇作家、市民活動家たちが招待された。演説をすることになっていたサンガーは、そこに布で口を覆って現れた。前日にニューヨークにあるサンガーの避妊クリニックが警察の強制捜査にあい、患者の記録が押収された。サンガーは逮捕されたスタッフの医師と看護師と警察署まで同行し、自分の弁護士に連絡したその足で、ボストンへ来たのであった。司会者は、サンガーを紹介するにあたって、「フォーラムの主催者が選んだ唯一の女性は、ここボストンで話すことを禁じられてしまっているのです」と皮肉を込めて不平を言い、聴衆から笑いを誘った。口を塞がれたまま演壇に立ったサンガーは、総立ちの拍手喝采で迎えられ、代理人が彼女から手渡された彼女の演説を読んだ。

「女性に口を閉じていろというのは残酷な罰とみなされています。その通りです。しかし、このひどい罰から派生する特定の利点があります……沈黙は私たちに考えを与えます。それは私たちが失ったもの、そして私たちが得たものについて考えさせます。言葉は結局のところ、考えの小さな変革にすぎません。信念が、そう、深い信念があれば、言葉で無駄にするのをよしましょう。代わりに信念を実行しましょう。信念を生きましょう」

サンガーが1921年に創設したアメリカ産児制限連盟(American Birth Control League ABCL)は、現在は全米家族計画連盟(Planned Parenthood Federation of America PPFA)として、アメリカで最大のリプロダクティブ・ヘルス・サービスの提供者である。ピルの開発においても、サンガーは晩年まで貢献し、1960年にアメリカ食品医薬品局が初のピルを容認し、その数年後にコムストック法が覆されるのを見届けてから生涯の幕を閉じた。

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これら初期のバースコントロール運動家たちについては、一面で、妊娠中絶に反対した、優生学に傾倒していたなどの批判が残る。げんに、黒人差別抗議デモが引き続き広がった2020年7月、ニューヨーク州の家族計画連盟(Planned Parenthood of Greater New York)は、「優生学運動との有害なつながり」を理由にマーガレット ・サンガーの名前をマンハッタンのクリニックから削除することを発表した。サンガーは、当時主流の優生学運動にのっていたと批判する声と、いや彼女はその運動にのりつつ、貧しい者、移民、黒人の子どもたちと家族がより良い人生を手に入れられるように力を尽くしたと擁護する声がある。しかし結局のところ、誰もが時代の子ではないだろうか。思想は時代から切り離せない。現在において主流とみなされている私たちの考え方や行いや法律を、百年後の人々はどう受け止めるのか。

時代の中で、彼女たちは、波に乗りながらも妥協できないところは妥協せずに、策略的に運動を進めた。今でも、どの国においても、女性の権利を主張する人々の多くはたいてい凄まじいバッシングを受け、徹底的に過去や素性を洗われ、被害者として告発する場合も、誹謗中傷はまず免れえない。だからこそなおさら、刑務所に入れられても正しいと信じたことを追求したパイオニアの女性たちに感嘆せざるを得ない。抑圧される者が衆人環視の的となり、それ見たことかという視線を受ける中、彼女たちの発する言葉に真剣に耳を傾け、活動について考え、賛同する場合は声なり、資金なり、時間なりを供与した市民がいたからこそ、変化は起き、法律も意識も塗り替えられていったのだ。

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この曲「クランプダウン」は、理想を抱え、権威を疑う若者がいつのまにか年を取り、弾圧者側になってしまうことも歌う。

              「でも君は成長し、落ち着く、そして弾圧のために働くようになる」

              「茶色と青色を着て、弾圧のために働くようになる」

              「誰かを指図できるようになったからと、偉そうに、調子に乗っている」

権威を疑い抵抗する者と抑圧を与える者の境界線は、意外とあいまいだ。

音楽を聴いていると、「ザ・クラッシュはバカ!」と叫ぶ私の子どもたちは、両親を、すなわち私と夫のことを自分たちの最大の弾圧者と見なしている。

数年前の11月のある日、前日と比べて気温が急にガクンと下がった朝があった。木綿のストレッチのきいた薄い帽子から、ウール製のニット帽に移行する時期だった。昆虫のプリントのある白地の薄い方の帽子をかぶると主張する次男に、もう寒いからこっちにしなさい、と黄土色で上にポンポンのついている、ふかふかしたニット帽を差し出した。どうしてもいやだ、と駄々をこねて、しまいには床にしゃがみ込み、顔を真っ赤にして支離滅裂なことを叫び、カエルのように時折飛び跳ねた。私と夫は顔を見合わせた。「テロリストとは交渉しない。」という暗黙のルールがあるため、そのまま夫は泣き叫ぶ次男を外へ促し、保育園へ連れて行こうとした。声がだんだん小さくなり、建物の外へ出てようやく落ち着いたかな、と思ったちょうどその時、インターフォンが鳴って、夫が話した。「あの白い帽子を窓から投げてくれるかな?『今日は子どもの権利の日だから僕が自分のかぶる帽子を選んでいい』って言われてさ。その通りだから分かった、って答えたんだ。」窓から薄っぺらい帽子を投げた後、通りを渡り、保育園へ真っ直ぐ向かう二人の後姿を見送った。

私たちの住んでいる地区では、建物の入り口の上や角に斜めに伸びる旗のポールが固定されており、祝祭日にはフィンランドの国旗が掲げられる。子どもの権利の日(世界子どもの日)も旗が揚がっていたので、次男は外に出てから保育園で習ったその日を思い出したのだろう。彼はたなびく大きな旗の下を誇り高く、父親と手をつなぎながら歩いていた。弾圧者たちに自分の権利を主張することで勝ち取った、氷点下には寒すぎる帽子をかぶって。

赤地葉子

・Clampdown, The Clash

[i] Ogino, M. 1996. Abortion, The Eugenic Protection Law, And Women's Reproductive Rights In Japan. Atlantis 21.1 http://journals.msvu.ca/index.php/atlantis/article/view/4135

[ii] Margaret Sangers Paper Project. Cathy Moran Hajo. https://sangerpapers.wordpress.com/2012/07/11/birth-of-a-movement-the-case-of-sadie-sachs/

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著者略歴

  1. 赤地 葉子

    1977年広島県生まれ。ハーバード大学パブリックヘルス大学院博士(国際保健)。東京大学学士(薬学)。世界保健機関(WHO)、グローバルファンド(The Global Fund to Fight AIDS, Tuberculosis and Malaria)、他の大学・国連研究所やNGOに勤務し、途上国における母子保健の推進、家族計画、マラリア対策、保健システムの強化等に政策、研究、現地調査を通して取り組む。2017年より国際開発(主に保健・ジェンダー)、ヘルスケア関連の個人コンサルタントとして独立し、フィンランドでデンマーク人の夫と二人の子どもと暮らす。著書に『北欧から「生きやすい社会」を考える』(新曜社)。

    ■クラルス掲載記事
    連載「赤地葉子のつれづれロック」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/categories/950

    「一斉休校の陰で苦しむ子どもたち」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/posts/5237

    「生きる力を育む包括的性(セクシュアリティ)教育」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/posts/491

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