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赤地葉子のつれづれロック

第14回 百万マイル遠くへ旅しよう

閉塞感と倦怠感でうんざりしてしまう、この長引くコロナ禍で、旅をさせてくれる音楽が聴きたくなる。私にとって、ジム・ボイドの曲、「ア・ミリオン・マイルズ・アウェイ」は、そんな曲の一つだ。「スモーク・シグナルズ」という映画(1998年)のサウンドトラックに入っている。

「車を借りて、ドライブしよう 百万マイル、遠くへ 火事を起こして、それを生き抜こう 百万マイル、遠くへ 太陽を盗んで隠そう 百万マイル、遠くへ 嵐を見つけてそれに乗っていこう」

私は大学を一年間休学していたその冬、周遊切符を購入して、アメリカの西半分をアムトラックで2か月近く回る旅をした。大きなバックパックを背負っての一人旅だったが、シアトルやユージーンの友人たちを訪れたり、サンフランシスコやグランドキャニオンで友人たちと落ち合ったり、ニュー・メキシコ州、テキサス州、ルイジアナ州を巡る途中、様々な人たちに出会ったりした。アムトラックの鉄道がつながらないところはグレイハウンドバスを乗り継いだ。友人宅のソファや、各地のビルや牧場や灯台にあるユースホステルに寝泊まりし、自由気ままな旅だった。

その道中に「スモーク・シグナルズ」を観たのだった。サンフランシスコのミッション地区の小さな映画館だった。上映室はまばらで、数少ない観客たちは、一人でぼそぼそと話していたり、相当酔っ払っていたり、朝からずっと同じ席で映画を観続けて、ほぼその上映室で暮らしているような感じだったりした。サンフランシスコで待ち合わせて一緒に滞在していた幼馴染と私は顔を見合わせ、無事にこの映画館から出ることができるのだろうかと不安がよぎった。

「スモーク・シグナルズ」は、先住民の居留地に住む若者二人のロードトリップ物語だ。自分が何者なのかを問い、自分の出生と親と先祖を許す、そして自分を許す旅に出る。アメリカ先住民によって脚本が書かれ、監督され、制作された。そして、この映画は、アメリカ先住民の俳優をキャストし、ジム・ボイドのようなアメリカ先住民のミュージシャンの音楽を積極的に使っている。さらに、実在するアメリカ先住民の居留地で撮影された。

この歌には、自然と一体となるような壮大さと、絶望的な暗さ、やるせなさ、閉塞感が混在する。貧困、アルコール問題、あらゆる形の暴力、自殺などの先住民の深刻な社会問題は、後に私がパブリックヘルスを学んだ際、多くのデータにより裏付けられ、それが紛れもない事実であることを知った。

「ポケットに地図がある どこに堕天使が落ちたのか印してある 君が地獄を道案内してくれるのなら 僕は天国から落ちてくるよ」

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アメリカの北西部に、サンフアン諸島という宝石のように美しい場所がある。世界でも指折りで美しい場所と信じているのは、私が両親とシアトルで暮らしていた子どもの頃、毎夏、数週間泊りがけのサマーキャンプに行っていた、特別な場所だからだ。身が清められる香りのする針葉樹林の合間から海を眺めるのが好きだった。アメリカ先住民が優雅にカヌーを漕いで沖へ離れて行く昔の様子が目に浮かぶようで、どのように自然と共存しながら生きていたのだろうと、思いを馳せた。私の通っていたアメリカの公立小中学校では、『ふくろうが私の名を呼ぶ』のような、先住民についての本が課題図書となっており、ワシントン州に暮らしていると大自然や先住民の文化や芸術が身近に感じられて、私は先住民に親近感を抱き、魅かれていた。

キャンプファイヤーを囲んで夜はよく、子どもたちの世話をするカウンセラーの中で音楽をやっている人たちが、ギターを弾いて、歌ってくれた。キャンプ最終日には毎年誰かが「悲しみのジェット・プレーン」を弾き語ってくれて、皆でしんみりとしていた。

サンフランシスコで「スモーク・シグナルズ」を一緒に見た幼馴染に、サマーキャンプで初めて出会ったのは10歳にもならないときだろうか。親に連れられてアメリカに行ったときは全く英語が話せなかったので、初めてキャンプへ送られたときは、どのように周りと意思の疎通をはかっていたのか謎なのだが、とにかくめいっぱい森の中で、海で、浜辺で、無人島で遊び、楽しかった。キャンプの後、ワシントン州南東の町から、私はイチゴの味のアイスクリームが好きだよと、ピンクの丸が逆三角形のコーンにのっている絵を描き、彼女は手紙を送ってきてくれた。二人ともリンドグレーンのシリーズや「赤毛のアン」が大好きで、言葉が通じないなりに、何かお互い分かり合える気がしたのかもしれない。そしてその後も文通し、毎夏、キャンプで再会した。その幼馴染とはその後、私が日本へ帰国して遠く離れていても連絡を取り合い、訪ねあったり、旅先で合流したりしていた。

出会って数年後、彼女は最愛の父を事故で失った。天使のような父親だった。少しはにかみがちだった物静かな少女は、やがて自信のある、日常の中に楽しさと美しさを見出す、教養のある、自然を愛する、慈悲深い女性へと成長した。彼女は社会的不正に草の根運動で立ち向かい、近きも遠きも含め弱者の苦しみを自分の痛みとして感じて、その感情を建設的な行動に移す人だった。

彼女が勧めてくれた本、プレゼントしてくれた詩集はたくさんある。トニ・モリソン、マヤ・アンジェロー、アリス・ウォーカーを紹介してくれたのも彼女だった。

最も多感な時期をともに過ごした大切な友達であったのに、いつからかお互い連絡が途絶えてしまった。皮肉にも、フェイスブックなどが流行りだし、これでお互いアップデートしやすくなるねなんて言っていた頃からだったと思う。二人の間だけを行き交うメールや手紙や電話もなくなってしまった。彼女はカリフォルニア州で、私はヨーロッパで暮らしていた。たまにSNSで写真を目にした。結婚し、子どもに恵まれ、幸せそうだった。グランドキャニオンに赤ちゃんを連れてハイキングしていた。疎遠になってしまったけれども、お互い忙しくしながら、どこかでゆるくつながっているつもりだった。

ある日、日本の両親から、当時暮らしていたジュネーブへ電話があった。彼女の母親から実家宛に手紙が届き、半年前に短い闘病の末に亡くなったという。亡くなる2か月前に、母体の病気のために予定日よりもずっと早く、緊急帝王切開で産まれた彼女の娘は、私の息子と数日違いの誕生日だった。

世の中は理不尽なことにあふれていると、頭ではわかっているはずだ。でも、それでも。若くして二人の幼い子どもたちと夫を残して逝った彼女の心情は。

醜いものや汚いものがどろどろと蔓延るこの世に、彼女の魂はあまりにも純粋で優しすぎて、長居してもらえなかったのだろうか。

息子たちの吹くシャボン玉が、ゆるやかな風に乗って飛んでいく。その中の完璧な一つの球は、空の色、木の葉の色、建物の色を万華鏡のように反射しながら美しく輝き、高く、ふわり、ふわりと舞い上がっていく。そして突然、なんの前触れもなくパチンと割れ、跡形もなく消える。先ほどまで確かにあったはずのものを、太陽に目を細めながら、遠く青い空の中になお探し求める。

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百万マイルどころか、自宅を中心に半径一マイル程度の生活を送っている最近だが、この曲を聴くと、時空を超えて旅することができる。

いつになってしまうのか、どこを目指せばいいのか、分からないけれども、いつか、どこかへ、彼女を悼む旅へ出かけようと思う。

赤地葉子

・A Million Miles Away, Jim Boyd

(この記事は、2022年2月前半に執筆されたものです。)

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著者略歴

  1. 赤地 葉子

    1977年広島県生まれ。ハーバード大学パブリックヘルス大学院博士(国際保健)。東京大学学士(薬学)。世界保健機関(WHO)、グローバルファンド(The Global Fund to Fight AIDS, Tuberculosis and Malaria)、他の大学・国連研究所やNGOに勤務し、途上国における母子保健の推進、家族計画、マラリア対策、保健システムの強化等に政策、研究、現地調査を通して取り組む。2017年より国際開発(主に保健・ジェンダー)、ヘルスケア関連の個人コンサルタントとして独立し、フィンランドでデンマーク人の夫と二人の子どもと暮らす。著書に『北欧から「生きやすい社会」を考える』(新曜社)。

    ■クラルス掲載記事
    連載「赤地葉子のつれづれロック」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/categories/950

    「一斉休校の陰で苦しむ子どもたち」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/posts/5237

    「生きる力を育む包括的性(セクシュアリティ)教育」
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