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赤地葉子のつれづれロック

第2回 冷笑主義と教育の目的

私がザ・クラッシュにのめり込んでいる近状を知った音楽好きの友人は、せっかくなら他のミュージシャンも聴いてごらんと、彼のお勧めの曲を時折送ってくれるようになった。そして初期のエルビス・コステロも気に入るかもしれないよと、送ってくれたのが、コステロのカバーした「ピース、ラヴ、アンド アンダースタンディング」((What's So Funny 'Bout) Peace, Love, and Understanding)のミュージックビデオだった。

私はこの歌と映像に初めから惹きつけられた。映像は、若き日のコステロが私の中学校の同級生と重なった。そしてビデオのロケーションは私が子ども時代の数年を過ごした太平洋岸北西部の懐かしい風景だった。

シアトルから帰国後に日本の中学校に転入した私は、自分の異分子ぶりを自覚してどこか居心地が悪かった。その居心地の悪さを相対的に薄めてくれたのが、強烈な個性を持ち、学校で一人完全に浮いていた赤ぶち眼鏡をかけた同級生の存在だった。習字の時間になぜか上半身裸で、墨で自分の体に顔を描いて廊下を走り回る、とか、そんな奇行が日常茶飯事の彼だった。それでいて彼の言うことは、容赦なく本質を突くことが多かった。コステロの分厚い特徴ある眼鏡、シャープなのにふざけているのか本気なのか分からない表情、ひょろっとした体、くねくねした動きがその同級生と重なり、なんだか彼に再会できたような気がした。ああ、こんなところにいたの、こういう音楽を君はやっていたの、なんて声をかけたくなる。

この歌で、コステロは叫ぶ、「平和と愛と理解し合うことの、いったい何がおかしいんだよ?! 何が笑えるんだよ?!」。悪意、憎悪、苦しみに満ちて、どん詰まりに暗いこの世の中、気が狂いそうになりながら希望という名の光を求めようとしてどこが悪い、何がダサいんだよ、と訴えかける。微笑みながら甘いメロディーで下手に平和、愛、相互理解を歌われたら白けてしまいそうなところを、このおどけつつ、周り全てをなめているようなコステロが、疾走感のある音楽をバックに吐き捨てると、妙に心に突き刺さる。

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冷笑主義というのは、希望を失ったときに傾倒する、自己防衛方法なのかもしれない。希望を持つことがリスクになるくらい、先行きに失望した者が、絶対に期待をしてはいけないのだ、と自分も他人も戒めている。だからこそ、若い人たちがそちらへ向かってしまうのは胸が痛む。それは現代がどのような時代なのかを物語っているからだ。そして、冷笑主義で失うものは大きくても、得るものは少ない。私たちは皆、きっと、冷笑する側になったこともあるし、冷笑される側になったこともある。

国際保健や開発の分野で仕事をしてきた私は、政府開発援助の非効率性や、各機関の政治的な決断や、支援を本当に必要としている人々のもとに届かない各国の仕組みや、偽善の裏で行われる搾取やハラスメントや、研究と政策と実務の乖離など、冷ややかにならざるを得ない現状を目にしてきた。客観的な分析は必要だ。しかし、そこから冷笑に走ると、もうその時点でこの分野の意義も、蓄積された英知も技術も経験も、現在まで全身全霊をかけて闘ってきた人々の努力も、すべてが泡になって消えてしまう。そして、私個人も、自分自身に対して、この問題山積みの社会で何を一人でできるのだ、と軽んじて、疑い、蔑んでしまう瞬間、すべての力を奪い去られてしまう。それは、危険な道だ。

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最近、仕事で教育関連のプロジェクトに携わった。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、東アフリカの女子の教育がどのような影響を受けたのかを現地で活動するNGOや研究所を介して調査した。パンデミックによって、男女ともに影響を受けたのは確かだが、性虐待、性暴力、少女の妊娠など、女子の受けた打撃は明らかに際立っていた。惨事を目の前にして、教育者たちは緊急対策に追われるばかりではなく、立ち止まり、根本的に女子の教育の在り方を変えなければいけないのではないか、と私たちに問いかけていた。

ケニアで、教育の平等を推進するためにデータを集め、分析結果を政策に結び付ける活動をしているNGOの事務局長は、インタビューでこのような洞察を共有してくれた。

「学校は、女の子が力を与えられる場所となるように設計する必要があります。現在、女の子向けではありません。彼女らは学校に行き、卒業するかもしれませんが、学校によって実際に解放されているわけではありません。彼女らは、学業成績が男子よりも良い場合でも、男性と同等であるとは感じていません。女の子は男子に従属していると感じて学校を卒業します。これは、学校制度の問題を指摘しています。」

彼の言っていることは、東アフリカにとどまらず、他国にも共通する課題だと思う。彼の言葉を反芻しながら、私は、国を問わず、教育で最も大切なのは結局何なのだろうと、考えさせられた。

「私たちは振り返って、『学校制度の産物として何が欲しいのか』と問う必要があります。試験に合格し、従順で、就職し、既存の規範に従って生きる人ですか? それとも、必ずしも進歩的ではない規範に刃向かえるような教育を受けた人ですか? 現在の学校制度は、ジェンダーの平等には役立たない。それは現状維持のための教育です。同じ古い規範に従って生きるための教育を受けています。」

教育は、  洗脳だ、と言われることもある。確かに、古い規範に従って生きてきた者が、後世の人間も自分のようになるために作ったものだろう。自分の価値観をぶち壊すような新たな世代を育むために作ったのではないだろう。私自身子育てしていても、素直におとなしく、親の言うことを聞いてくれたらどんなに楽かと思ってしまう一方で、子どもが何でもそのまま言うことを聞き、親とそっくりに育ってしまったらと思うとゾッとする。それは親の望むところでは全くない。

変革的な教育が、どのようなものであるのか私にはまだわからない。しかし、教育をとおして、学業以外に必要な、生きる術を取得できる必要があることは確かだ。そして、その中の一つに、もっともっと強調されて習得されるべきことの一つに、こんな単純なことも含まれるのではないか。

自分にとって大切なものを見つけることができたら、それが何であるにせよ、絶対に守れ。周りの雑音や冷笑に惑わされずに、誰にも奪われずに、それを失わないように、徹底的に守れ。

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赤ぶち眼鏡の同級生とは、まじめな会話をした覚えがない。セックス・ピストルズが好きだった彼は、コステロにそっくりだと言ったら、パブ・ロックと一緒にするな、俺はパンク・ロックだぜ、と憤慨するかもしれない。ギターをやっていた彼の音楽を聴くことも、UKロック談や中学校の思い出話をすることも、今や決してできない。でも、荒野をさまよっているような感覚に陥り、行ってはいけない方向へ重い足で踏み外しそうになった時に、私はこの一曲を聴くことができる。

 

赤地葉子

 ・(What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding, Elvis Costello  

 

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著者略歴

  1. 赤地 葉子

    1977年広島県生まれ。ハーバード大学パブリックヘルス大学院博士(国際保健)。東京大学学士(薬学)。世界保健機関(WHO)、グローバルファンド(The Global Fund to Fight AIDS, Tuberculosis and Malaria)、他の大学・国連研究所やNGOに勤務し、途上国における母子保健の推進、家族計画、マラリア対策、保健システムの強化等に政策、研究、現地調査を通して取り組む。2017年より国際開発(主に保健・ジェンダー)、ヘルスケア関連の個人コンサルタントとして独立し、フィンランドでデンマーク人の夫と二人の子どもと暮らす。著書に『北欧から「生きやすい社会」を考える』(新曜社)。

    ■クラルス掲載記事
    連載「赤地葉子のつれづれロック」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/categories/950

    「一斉休校の陰で苦しむ子どもたち」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/posts/5237

    「生きる力を育む包括的性(セクシュアリティ)教育」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/posts/491

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