『ロボットの悲しみ』から10年後の再検討⸺「のようなもの」をめぐって(松本光太郎)
2025年2月1日・2日に東京・お台場にある日本科学未来館で「弱いロボット展」が開催された。岡田美智男さんの主宰するICD-LABがつくってきた多くの「弱いロボット」の展示・実演と、弱いロボットのこれまでをふり返り、今後を見通す3つのトークセッションで構成された学術学会のような大きな規模の展覧会であった。
「弱いロボット展」のトークセッションの一つ、弱いロボットの今後を見通す「〈弱いロボット〉は、どこに向かうの?」に筆者は携わり、モデレーター/司会を務めた。
トークセッションの様子は、サイエンスライターの森山和道さんによる内容を凝縮した素晴らしいレポート「ロボットと人が共同構成する「場」と「物語」⸺「弱いロボット展」トークセッションから」がオンラインで公開されている。
このレポートでは、トークセッションに『ロボットの悲しみ』(新曜社、2014)の執筆者5人が集まったこと、岡田さんがトークセッションを企画したのは『ロボットの悲しみ』で提起していた問題がロボットやAIの領域で未だ克服できていないからであったこと、そのあたりのことをふり返り、その先を検討してみたい。
弱いロボットの展示・実演
『ロボットの悲しみ』を発刊した後、10年ほどが経った。実装した弱いロボットやその考え方は加速度的に広まり、多くの人に受け止められるようになった。この10年の主要な成果として、新書や児童向け図書を執筆して⸺絵本の計画もあると聞く⸺、家電メーカーが「弱いロボット」を製作・販売して、小学校の国語の教科書に「弱いロボット」を取り上げた文章が掲載された。
今回の「弱いロボット展」にも多くの子どもと大人が足を運び、展示・実演するロボットたちに身を乗り出して眺めたり触れたり操作したりしていた。ロボットにトラブルが生じたとき、担当者(ICD-LABの研究者)の修理を待っている、あるいは一旦離れて戻ってくる姿が子どもの熱心な気持ちを表しているように見えた。
新しくつくられ、知らなかったロボットも多く展示・実演されていた。特に興味を惹かれたのは、近づくと水蒸気が噴き出すロボット「Omboo!」、そして3DプリンターでMDF(木質繊維を原料とする板)から切り出した骨格だけのロボット「トント~ン」である。また、布や新聞で隠された内側に視点がありそうな「コムソウ君」に人が集まっていたのが印象的だった。
図1 コムソウ君
ロボットの制作は部品を集めて動作や言葉を生み出すので、〈ない〉を〈ある〉にする。そのなかで岡田さんの構想するロボットは、大掛かりなことではなく、わずかな仕掛けが様々なかたちに波及していく波紋のように〈ない〉を〈ある〉にするところに特徴があると筆者には思える。先述した噴き出す水蒸気は霧という実態になる。MDFでつくった骨格は最小限のパーツだからこそ反応にランダム性を生み出し、人間の受け止め方が多様になる。そして、コムソウ君の視点は隠すことで見ている人間がその存在を読み取っている。
こんな実り多き10年を過ごした岡田美智男さんが弱いロボットの今後を見通すうえで、このタイミングで議論しておきたいことがあって、「弱いロボット展」においてトークセッションが企画された。
トークセッション「〈弱いロボット〉は、どこに向かうの?」
トークセッションの登壇者は、岡田美智男、麻生武、浅田稔、小嶋秀樹、浜田寿美男、そして松本の6名で、浅田さん以外は『ロボットの悲しみ』の執筆者であった。偶然5人が集まったのではなく、岡田さんが長らく切望していた再集合であった。
尊敬する浜田さんと麻生さんにまた会いたい、そんな岡田さんのファン心理が再集合を切望した理由の一つだろう。それにくわえて、『ロボットの悲しみ』をつくっていたときに議論していたロボットやAIの問題が未だに克服できていなくて、弱いロボットの今後を展望するためにこのタイミングで検討するための再集合であったと理解している。
トークセッションは、松本が趣旨説明をした後、浜田さんのキーノートスピーチ「人間だって、そんなに強くありません。たった一人だと…」、そして登壇者によるトークセッションと進行した。
図2 キーノートスピーチ(浜田さん)の様子
図3 トーク(浜田さんと岡田さん)の様子
岡田さんがトークセッションで語ったところによれば、ロボットやAIの領域で未だ克服できていないこととは、『ロボットの悲しみ』の5章「ロボットは人間「のようなもの」を超えられるか」で浜田さんが提起した問題であった。
浜田さんがキーノートレクチャーでも触れていた生き物の相補性は、個別性と共同性を持つ身体がお互いに補い合いながら成り立っている。弱いロボットは生き物の身体の不完結さを想定して、自分ではできないことを人間にやってもらう関係論的な行為方略を実装していた。例えば、ゴミ箱ロボットは手を持たないためにゴミを拾えない。そのできなさによって、ゴミを拾ってゴミ箱に入れる人間のサポートを引き出し、その空間がきれいになる結果を生み出している。
図4 トークセッション(左から松本、浜田、麻生、小嶋、浅田(敬称略))の様子
トークセッションで浅田さんが紹介してくれた認知発達ロボティクスは、岡田さんの弱いロボットと同様に、ロボットを制作しながら人間をはじめとする生き物の成り立ちを明らかにする構成論法をとっている。しかし、認知発達ロボティクスと弱いロボットは好対照に思えた。認知発達ロボティクスは機械工学としてロボットのメカニズムを構成することに重点が置かれている。ロボットのメカニズムが構成できれば、運動やコミュニケーションが実現する。つまり、メカニズムという原因をつきとめれば、結果は自ずとついてくる。同様に心理学においても「~能力」を探すことに縛られている。原因を知りたい、原因を知ることができれば結果は保証されるはず(そんなことはないのだが…)。それに対して弱いロボットは結果を構成している。弱いロボットは人間と出会うことでどんな結果(出来事)が生じるのか。ロボット工学における原因から結果への転回を弱いロボットは成し遂げている。
ただし、このロボット-人間関係は人間が他の能動(志向)的存在に敏感であることによって成り立っている。人間が生き物のようなかたち(同型)をしたロボットは自分たちのように能動しているのだろうと想定することで関係は成立する。ロボットは能動していないにもかかわらず、人間は能動的存在として想定してしまうのである。つまり、弱いロボットにおける人間との関係は、実は人間がその多くを負っていて、生き物同士の相補性とは異なっている。
また、トークセッションでは取り上げられなかったが、浜田さんは大人(研究者)が子どもの発達を理解する際に、すでにいろんなことができる大人の視点から逆行的に子どもの発達をとらえる「逆行的構成」の問題を長らく指摘していて、その理論をロボットの成立過程に応用していた。つまり、ロボットは運動やコミュニケーションができる人間が逆行的に構成していて、順行的に運動やコミュニケーションを身につけてきた生き物とは成り立ちが違う。ロボットは人間「のようなもの」を超えられるかという浜田さんの問題提起に対して、岡田さんは未だ超えられていないと考えていたわけである。
しかし、「のようなもの」を超えなければならないのだろうか。麻生さんが弱いロボットは物とペットのあいだと指摘していたように、人間やペットといった生き物と張り合わなくてよいかもしれない。生き物とは違う、ただの物でもない、主体とはならないが、人間同士のコミュニケーションにおける魅力的な媒介項(第三項)として弱いロボットや小嶋さんのつくったロボットは独自のポジションを開拓してきたのではないか。「弱いロボット展」では弱いロボットを挟んで親子や友だち同士のコミュニケーションがあちこちで生じていた。
浜田さんや小嶋さんが懸念していたように、強い主体性を持つロボットが人間の能動的な存在に敏感であることにつけこむことはありえるだろう。それは脅威であり、対応が必要である。もっとも、強い主体性を持たない弱いロボットであっても能動的な存在に敏感な人間の特徴を利用している、あるいはつけこんでいるといえる。それはロボットの宿命で、『ロボットの悲しみ』であった。
そのうえで、弱いロボットと強いロボットではカテゴリーが違うと考えられないだろうか。弱いロボットである要件は「のようなもの」を超えない、超えようとしないことにある。「のようなもの」を超えようとするのは、強いロボットを⸺ロボット工学者である限り⸺指向してしまうからのように思えてしまう。カテゴリーの違いを踏まえれば、弱いロボットにおいて「のようなもの」問題は問題にならない。これが本レポートの結論である。人間のようなロボットではなく、ロボットの本物を今後もつくり続けてほしい。
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最後に、トークセッション前日当日と信頼する旧友に会ったような気兼ねないトークを満喫した。本レポートは楽しかったトークの感想戦のようなものである。また集まる機会があることを期待して、本レポートを閉じたい。