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赤地葉子のつれづれロック

第13回 妄信

バッド・レリジョン(Bad Religion)の曲、「アメリカン・ジーザス」。直訳すると、「悪い宗教」という名のバンドの「アメリカ人のイエス・キリスト」という曲となる。

湾岸戦争の際、当時の大統領ジョージ・ブッシュ(父親の方)が、「神が味方についているから、我々は勝利する。」と発言したことに触発され、ボーカルのグレッグ・グラフィンらはこの曲で、「俺たちにはアメリカ人のイエス・キリストがついているぜ!」と歌った。もちろん、アメリカ政府への非難の意図を込めた皮肉である。

活気のある、にぎやかな音楽で、こんな風に始まる。

「俺たちはグローバル市民なんかになる必要はない 国籍に恵まれているからさ」

グラフィンは真面目に叫んでいるのに、鋭い風刺のきいた歌詞に思わず吹き出してしまう。

「地球の人口を気の毒に思うよ アメリカに住めるのは少数だからね まあせめて外国人は俺たちの道徳を真似ることができるさ 訪問してもいいけど滞在しちゃだめだ」

しかし、曲の半ばで、その「アメリカ人の神」についてとうとうと描写する箇所があり、その辺りから我々の身近に潜む、いや実は我々自身の内部に潜む、妄信の恐怖と狂気がにじみ出てくる。決してへらへらと笑っていられなくなる。

「(アメリカ人の神は)殺人者の動機でもあり、自制心でもある
―――[バックコーラス]彼はあなたの罪を贖ってくれる!」

「(アメリカ人の神は)テレビに出ている説教者であり、偽りの誠実だ
―――[バックコーラス]強い心と明晰な頭脳!」

最後は、「神の下に一つの国」という言葉がコーラスで何度も繰り返される。ミュージックビデオでは、目隠しされた人々が横一列に並び、全員が片手を胸に当てて忠誠を誓っているのが映されるエンディングだ。

私にとってこの曲は、アメリカ合衆国やそこにおける宗教と政治に限らず、もっと根本的に、「盲目的に信じるな――疑え、そして自分で考えろ」と訴えかけてくる。

際限なくあふれる情報量に圧倒され、何が正しく、何が間違っているのか定かでない現代。自分の価値観や信念を丁寧に育み、ぶれずに守り、更新していくことは容易でない。

妄信は、極端な思想だけに関わるものではない。もっと微妙な、気づかない偏見や見えない差別も、私たちの妄信が根底で関わっているのかもしれない。

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男女平等が進んでいるといわれる北欧でも、隠れた偏見や差別は根強いのだなあと時折、気づかされる。夫が新聞で読んでいたのだが、デンマークのあるカップルが、同じ人材派遣会社に、それぞれ面接を受けたという。男性のほうは「子どもが三人いるということは貴方の安定した人格を表す」と評価されたのに対し、女性のほうは「子どもが三人もいることは採用側にとって問題点となる。どう対策をたてようか」と否定的に捉えられたそうだ。

フィンランドの地方都市で採用された女性重役が、家族を伴わずに単身赴任する意志を伝えたところ採用を取り下げられ(男性が同じことをしても問題にならなかったという前提で)訴えている、ということも話題になった。フィンランドの大学の採用で、候補の5人は全員、子どもを持っていたが、うち一人だけが女性だった。採用されたら仕事と育児をどうこなしていくのかという質問は女性候補者にだけ出たというが、質問をした面接官は、たぶん無意識だっただろう。そして、自分が差別をしたとはつゆほども思ってもいないだろう。それは別に差別ではないでしょう、という声もあるかもしれない。

ジェンダー、肌の色、宗教、生まれた場所、障害などなど、あらゆる差別に関する意識や制度は、しばしば長い時間をかけて、おびただしい数の、大小さまざまな闘いの末に変化が起こっていく。2020年9月の逝去までアメリカ合衆国最高裁判所の判事を務めたルース・ベイダー・ギンズバーグは、その卓越したキャリアの初め、アメリカの名門の大学院をトップで卒業したにもかかわらず、女性であることを理由にどこからも雇われなかった過去を持つ。彼女は、アメリカ自由人権協会(American Civil Liberties UnionACLU)の女性の権利プロジェクトの法務顧問として、1970年代に数々のジェンダーに関わる件を手掛け、最高裁では6件の性差別の件を訴え、うち5件に勝訴した。

当時の最高裁判所の判事たちは、当初、性差別であると指摘されても、ぽかんとしていた。性差別などもはや存在していないと、9人の全員男性である判事たちは信じて疑わなかったからだ。ギンズバーグの手法は、すべての性差別を一気に撤回することを求めるのではなく、特定の差別的な法令に狙いを定め、一つの勝利の上に、新たなケースの勝利を積み重ね、またその上にさらなる勝利を重ね、という戦略的な道を行くものだった。原告を慎重に選び、時に意図的に男性の原告を取ることで、性差別が女性だけではなく、男性にも有害であることを証明した。

また、ギンズバーグが標的にした法令は、表面的には女性に利益をもたらすかのようで、実は女性が男性に頼らなければやっていけないという固定観念を増強するものが含まれていた。たとえば、1975年に勝訴した件では、ギンズバーグは妻に先立たれ、幼い子どもがいるのに遺族年金を拒否された夫の代理を務めた。当時は、夫と妻が逆の立場であったら、すなわち、夫が亡くなった場合は、遺族年金が保証された。この原告の場合、夫は自宅で小さなビジネスを始めたところで、高校教師として働く妻が主な稼ぎ主であったが、出産の際に彼女は命を失った。夫は自分たちの子どもを育てようとしたが、何も保障がなかったのだ。ギンズバーグは男性労働者の遺族である女性と同様に、女性労働者の遺族である男性も守られる権利があると指摘し、性差別は女性だけではなく、男性も傷つけることを明らかにした。

「貴方にとって大切なことのために戦いなさい。でも他の人たちも貴方に加わりたくなるようなやり方で闘いなさい。(Fight for the things you care about, but do it in a way that will lead others to join you.)」

悔しいこと、許せないことが身に降りかかるとき、私たちは一人ひとり各自の闘い方を選ぶ。内に秘めて耐える。怒って歯向かう。こんな人たちのレベルまで自分を下げないと、自ら職場なり環境なりから出ていく。制度や意識を変えることに力を尽くす。闘い方はさまざまではあるけれども、ギンズバーグの上の言葉は、ふと立ち止まり、我に返って、これで本当にいいのかと冷静に自分に問いただす力がある。

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自分の二人の子どもの日本語の語彙は、母親の私から吸収する言葉がほとんどだ。最近は、日本語補習校の授業での先生や友達や、ビデオ電話を介して日本の私の両親からも学んでいるが、小さい頃は大抵、彼らが新たに使いはじめる日本語は、私が口にしたものか、一緒に読んだ絵本からのものであった。日本語に接する機会が日常生活で限られているから、ほかに責任転嫁ができない。「ヒトが一個いたよ」と言うのを「人が一人いたのね」と言い直すことを何百回繰り返しても、未だに正しい言い方を覚えてくれない。(それどころか、最近は、指摘すると、「リンゴみたいにまあるい人だったら一個、二個って数えていいんだよ。」などと自説が返ってくる。)ところが、親の自分が口にして「しまった!」と思う言葉はその一回で抜群の記憶力で彼らの脳にインプットされてしまう。それはかなり怖いもので、子ども二人が喧嘩しはじめるときに飛び交う文句が、語彙も言葉遣いも口調も、あげくは身振りまで、怒った私にそっくりだ。「イイカゲン、ナサイ、モー!」「ナニヤッテルノ、マッタクー!」私のコピー同士がいがみ合って、取っ組み合いになるのを目の当たりにしながら、仲裁に入る気力も萎えてしまう。

数年前、支離滅裂なことを威勢よく口走っていた当時三歳児だった方をたしなめていたら、急に足を踏ん張ってこちらを逆三角の目で見上げ、「そーゆーものなの!」と返されてはっとした。どこでそれを聞いたのか、私がそんなことを言ったのかと聞くと、日本でばいきんまんが言っていたと返されたが、真相は定かでない。それ以降、しばらく、「そーゆーものなの!」は彼らに都合よく使われた。小さなレゴでソファ一面覆われているとき。スパイダーマンのパジャマのままで朝ごはんを食べようとするとき。

「そーゆーものなの!」とは理不尽な逃げ方だ。子どもたちにとって大人の命令や世の中のしくみなんてそれこそ意味不明で支離滅裂だろう。そんな世界を彼らに丁寧に説明しようとも試みず、彼らの視点や言い分を考慮せず、そもそも本当にそうなのか自分で立ち止まって考えることもせずに頭ごなしに押しつける。そんなひどいことを自分はしているのだろうか。一番自分がなりたくないと思う親になっているようでぞっとした。そして、本当に、私ではなくて、ばいきんまんからこの文句を学んだことを願ってしまう。

「僕のお皿からブドウ取ったでしょ」「いいの、今はこれ僕のなの。そーゆーものなの!」という会話が近くで展開する中、自分も、世の中そーゆーものなの、と、女性だから、日本人だから、こういう状況だから、と諦めてはいないか、いい加減にしてはいないか、と自問した。ブドウ一粒のために派手な決闘を繰り広げる子どもたちのエネルギーまでは持ち合わせていないにしろ、本当にそれでいいのかと問う姿勢は最低限でも持ちたいと、疲れた頭でぼんやりと思いを巡らせていたのだった。

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現在、長引くコロナ禍で、私たちは弱っている。精神的に参っているとき、辛いとき、窮地に立ったとき、私たちは現状維持で精いっぱいだったり、守りに入ってエネルギー消費を最小限に抑えようとしたりする。そして私たちは何かにすがりたくなる。何か自分よりもずっと大きく偉大なものに服従したり、自分の耳に心地よい言葉を発信してくれるカリスマ的な存在のことを信じたくなる。その方が、楽な気がしてくる。何か引っかかることがあっても、あえて問い返さず、世の中そういうものだから、『世論』はこうであるから、『有識者』たちはああ言っているから、とそこへ身を委ねてしまえばそれで済む。

しかし、自分で考えることを止めたら、それは本当の、完全なる負けだ。

癒してくれる音楽も悪くないが、「アメリカン・ジーザス」のような曲をかけて、目を覚まし、自分を鼓舞することも今、必要だと思う。

 赤地葉子

・American Jesus, Bad Religion

(この記事は、2022年2月前半に執筆されたものです。)

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著者略歴

  1. 赤地 葉子

    1977年広島県生まれ。ハーバード大学パブリックヘルス大学院博士(国際保健)。東京大学学士(薬学)。世界保健機関(WHO)、グローバルファンド(The Global Fund to Fight AIDS, Tuberculosis and Malaria)、他の大学・国連研究所やNGOに勤務し、途上国における母子保健の推進、家族計画、マラリア対策、保健システムの強化等に政策、研究、現地調査を通して取り組む。2017年より国際開発(主に保健・ジェンダー)、ヘルスケア関連の個人コンサルタントとして独立し、フィンランドでデンマーク人の夫と二人の子どもと暮らす。著書に『北欧から「生きやすい社会」を考える』(新曜社)。

    ■クラルス掲載記事
    連載「赤地葉子のつれづれロック」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/categories/950

    「一斉休校の陰で苦しむ子どもたち」
    https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/posts/5237

    「生きる力を育む包括的性(セクシュアリティ)教育」
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