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「道具と結果方法論」から見た学校臨床

第2回 話題提供1:誰が何に「適応」するのか?(松嶋秀明)

 みなさんこんにちは、松嶋秀明です。

  私はそもそもは、研究者として非行的な問題行動を起こす人たちの立ち直り、更生に興味をもってきましたが、その関係から学校臨床にも興味をもつようになりました。また、臨床心理士として小学校や中学校でスクールカウンセラーをやっています。

  昨年9月に本が出ました(『少年の「問題」/「問題」の少年』新曜社)ので、今日の話題提供もその内容にのっとったものになるかと思います。今日のテーマである、ニューマンとホルツマンが考えた道具と結果方法論を直接この本で扱っているわけではないんですが、影響を受けていますし、関係づけて新たに考えられたらいいと思います。よろしくお願いします。

  さて、タイトルですが、「誰が何に「適応」するのか?」とつけました。少し変なタイトルだと思う方もいらっしゃるかもしれません。

  「適応」というフレーズを聞くと、それはたとえば、非行的な問題行動を起こしているその人が「不適応」であるといった具合に考えられていることが多いと思います。

 そして、では、そのように不適応な生徒がどうやったら適応するのかというと、学校という枠組みがあって、そこに先生がいて、そこで認められている社会的なルールがある、そういうところにうまく入り込んでいくことであるとみなされることが多いのではないかと思います。

  学校現場では、心理学がもついろいろなテクノロジーが、こうした「適応」を達成するために駆使されています。スクールカウンセラーの職務のひとつとして「心理教育」に関する関心も高まっています。自分自身、それをやってくださいという依頼を受けたりしています。そうした依頼をされる時点での先生方の認識としては、ある生徒は仲間とうまくやれないから、そういうことを練習させてやってほしいとか、なかなか思ったことを言えずに我慢してしまう子だからとか、衝動的にキレてしまって暴力的になってしまう子がいるんだとか、いずれにせよ、その生徒の個の能力が足りないために問題が起こる、つまり不適応になる、だからそれを心理教育で補っていくと適応できるのではないか、という話ではないかと思います。心理教育プログラムはプログラムで、私は一概に否定するつもりはないのですが、このようなことになっている。

  今日のテーマになぞらえて考えた場合に、適応的に振る舞えることの前に、いろいろな訓練などをして、なんらかの発達した状況になっていることを準備しようというようなモデルになっている。二段構えですね。準備する→振る舞うというモデルになっているのかなと思います。それが、ニューマンとホルツマンのソーシャルセラピューティクスで考えるとどうなるか、ということなんです。

  道具と結果方法論の対比として用いられるのが、結果のための道具方法論です。どちらかと言うと、これまで紹介してきた心理教育は結果のための道具になっているのではないかと思います。つまり、何か訓練を積んだりして、何かしらの能力が発達すると、適応的に振る舞えるようになる、という二段階モデルですね。

  しかし、ホルツマンに言わせるとそれは違う。つまり、発達とは自分ではない存在として振る舞うことを通して何かを創造する活動だと。そこではとにかくパフォームすることが大事で、パフォームするなかで発達につながっていく、それが発達だと言っているわけです。

  コンプリートという概念について。ヴィゴツキーは思考は言葉によって表現されるのではなく、言葉によって完成されると言っています。言葉の話せない赤ちゃんは言葉が話せるようになってからコミュニケーションするのかと言うとそうではない。エンエン泣いていても、父親母親は、「オムツ換えるの」、「どこか痛いの」、といったようにいろいろと問いかける。もうコミュニケーションはできてしまう。そのなかで何かが展開していく。ハッピーなこともあればそうでないこともあるけれど、とにかく展開していく。誰かに対して反応することが完成するということだと思いますが、何かができるようになったからこうするのだ、思考は言葉が話せるようになってから表現されるのではなく、思考は他者とやりとりするなかで完成されていくものだということをヴィゴツキーは言っている。

 セラピーでも同じです。セラピーについてはホルツマンが言っているのですが、従来のセラピー的なものが、たとえばその本人の真の自己のようなものを洞察して、探り当てて語れるようになるからよくなるというモデルはまったくおかしい。しかし、表面的にカウンセリングで元気になる人が多いのはなぜかと考えたときに、それは真の自己を語るからではなく、社会的に完成されるからではないか、と。

  つまり自分は虐待されていたと言ったとき、「それは本当なの、嘘なの?」と完成するやり方もあれば、それを受けて「あなたにとってそれはどんな意味があるの、どういうふうに進んでいこうと思っているの」と完成するやり方もある。その完成のされ方によって治療的でもあればそうでもない場合もある。相手との相互作用のなかでできていくことなんだということを言っているわけです。

  このような完成とか、パフォームとかいった概念がキー概念になるなと私としては理解しています。

  こういうことが学校のなかでどういうふうに起こっているのだろうということをこの後見ていきたいと思っています。

  3年間、とても荒れた中学校に入りました。1年生の4月くらいから授業にならないことが頻発して、みんな廊下に出てくる。入れって言ってもまた出て行く。授業妨害、奇声を上げる、暴れるといったいろいろなことがあり、しまいには先生が殴られることもある、そういう学校でした。

  そのなかでもアキという子は、先生たちから一番心配されていた、気にかかるとされていた生徒でした。今回の発表では、この生徒に焦点を当てていきます。結果的に言うと、この学校のこの学年は1年の頃はすごく荒れていたんだけれど、2年になるとわりと落ち着いてきたんですね。アキも、表面的な行動としては逸脱したままなのだけれど、先生とのかかわり合いのなかでとても充実した意義のある3年間を過ごしたという感想をもって中学を卒業して行きます。どうしてそのようなことが起きたのかをあとから見ていきます。

黒線はアキを、灰色線はコウヘイをそれぞれあらわす(今回のプレゼンテーションのなかにはコウヘイは直接は言及されていないが、のちの議論のなかでふれられる)。実線は実際にとった経路、波線は理論的にとりえた経路をあらわす。長方形の上部は教室、中は廊下、下部は学校外をそれぞれあらわす。黒箱は、教師からの規範的な指導、白箱は教師からの特別支援的指導、灰色箱は一般生徒をまきこんだ働きかけを表している。

 

 この図はアキの3年間の流れです。結果的に言うと、アキはほとんどを廊下に出て、あるいは学校の外に出て過ごしていた生徒でした。これが1年生の頃です。ただ、アキ以外にも琢さんの人が出ていたというのが1年生の頃でしたが、先生たちは、まずぶつかるよりも話を聞いてやる、聞いてやるというよりはそうせざるを得ないからそうなってしまったというのが正しいのですが。

  あとは、自分たちの方を向いてくれる人たちに信頼関係を作って、学校運営をしていこうと続けていました。課題のある生徒たちに振り回されているけれど、君たちもちゃんとこの学校で頑張っていこうということを言って勇気づけた。これが先生方がやったことです。

 すると結構落ち着いたと先生方は言うんです。口が悪い人から言えば、そんなのは言うことをきかせられなかったから、なし崩し的にそうなっただけじゃないか、ということなのですが、そうではないのです。これは2年生のとき、アキの担任になった先生ですが、1年生のときは本当に葛藤がいっぱいあったと、(授業に)入れなくていいのかという葛藤もいっぱいあったけれど、話を聞くとすごくいろいろなことが見えていくんだと言うんですね。

  アキの場合は、父親的な存在でガツンと言われると、絶対すなおに聞けない子だということが分かった。本来的ではないけれど、本当に生徒指導上、教師としてとても大切なことが分かったということを実感としてもたれる人がいます。

  あるいは1年生のときの担任の先生の語りはこうです。アキはやっぱり悪いことをいっぱいするので警察に呼ばれたり、人の家に謝りに行ったりとか、いろいろなことをするんです。それを先生は自家用車で送っていくわけです。そういうのは普通は嫌なことなんだけれども、アキは「これで○回目だなあ」みたいなふうに嬉しそうに言うんだ、と言うんですね。普通は何回も怒られに行くのはそれだけで嫌なものだと思うんですが、そうならない。と、不思議そうに語られました。かえって、そのような体験であっても、自分のために何かしてくれている人がいるということが、彼にとってはそんなに尊いことなのか、ということで、アキに対する見方が変わった。そういうこともあるのかな、と思います。

  次の語りは、アキが警察での継続補導に呼ばれたときに、車で送り迎えをした先生の語りですが、学校に送り届けた際、アキはそれにたいして「ありがとう」と言ってくれたというエピソードです。生徒指導の先生も「褒められたことがいままでないんでしょうね」ということをこの時点で感じとっておられました。かかわってみると、そういうことがだんだん分かってきたということなんですね。

  今まで、規範通りに学校の教室に入れようとしていた頃には見えなかったいろいろなことが見えてきて、すごく大事なことを自分たちは学んだということを実感として先生たちはもっていると思います。

  結局この事態は、「逸脱」を取りまく布置が変わったということではないかと思います。アキがおとなしくなったということももちろんあるかもしれないけれども、それは周りの変化とも切り離せなくて、むしろ先生たちのアキを見る目が変わった、アキに対応するやり方が変わったというところがとても大きいと思えるわけです。

  アキの出す特異な行動がまた先生たちの見方を深めることになったということかと思います。要するに、ホルツマン・ニューマン流に言えば、これは「完成」の質が変わってきたということなのではないかと思います。

 図にするとこのようになります。生徒の位置は変わっていないけれど、先生の位置が変わっている。やるべき先生と生徒という枠組みが、昔は狭かったけれども、広がっていった。それと、アキの位置は変わらなくても、なんとなく生徒だとして扱われるようになる。

  ただ、やっぱり一般生徒を育てるということをしたので、教室の雰囲気はよくなっていくんです。そこで、廊下にたまっていたメンバーはだんだん教室に入っていって、少なくなっていくんですね。でも、アキはどうしても入れない。それはやっぱり、アキのいままでの生い立ちの、辛いところもあったと思うんですが、とにかく入れない。すると、面白くないので学校に来る日も減ってきましたし、面白い場を探して他校の非行生徒たちとつるむようになったり、暴走族に入ったりということができるようになっていきました。

  それはやっぱり生徒指導的に考えれば、より心配になってきたということなのではないか、と思います。(そういう行為を)やめさせるというのが普通の対応だと思うんですが、ここの生徒指導の先生は面白くて、いいとは言わないんですが、心配だよということは言いながら、やめさせることをしないで、「いまは誰とどういうふうに付き合って、どうやってるの?」ということをフランクな立場でちゃんと聞くことをずっとやっていました。そこでどうしても本当に危険なことになったらちゃんと相談してくださいよ、ということを言う。モニターしながらかかわるということをされていました。

  それがつながってくるのが、3年生の最後の頃のことですが、2年生にショウという子がいて、この子も暴走族に入ったんですね。ですが、どうもメンバーのなかでも彼の地位が低く、いじめられているようだと。アキはわりとショウのことが心配だったんですよ。それで、生徒指導の先生に言った。生徒指導の先生の方でもショウの母親から相談されていたので心配だと思っていた。先生はアキに、「ちょうどいいから、ショウのことを助けるためにいろいろと立ち回ってくれへんか」ということをお願いしたんですね。アキは「ああいいよ」ということになりました。いろいろと情報を流したり、いろいろなことをしたおかげで、結果的にショウは暴走族から抜けることができた。そのことを聞いたショウのお母さんは、「アキくんほんとにありがとう」とすごく感謝されたということなんですね。

  僕は見ていないのですが、生徒指導の先生から聞かせてもらったのが、この枠にある会話ですね。その場に立ち合った生徒指導の先生が「人の役に立てるのはすごい気持ちいいことじゃないか?」というふうに聞いたら「本当にすごく気持ちいい」と、初めて言ったということなんですね。いままで、1年生の頃から、褒められた経験が少ないと思ってきたこの生徒が、人のためにこれだけ役に立つことでいい思いができるということが分かったというのが、本当に大きいことだと思います。

  これは、何か彼のなかに準備状況ができていたから適応的に振る舞える、社会的にいいことができたのかというと、そうも見えるかもしれないけれど、むしろ、そういうよりは、先生と一緒になっていろいろな活動をしていたら、最終的に、自動的に、人の役に立つことがパフォーマンスできたとも言えるのではないか、と思います。この生徒指導の先生は、ことあるごとに、コンプリートするやり方を変えて今にいたる。パフォーマンスできることが、どうもアキの将来像にも影響を与えているようだったんです。そういうことで、3年の間にアキは前向きになって卒業していくことができるようになりました。

  まとめますと、非行生徒の落ち着きは、子どもだけの変化ではなく、教師や、今日は言いませんでしたが、生徒集団の全体的な布置の変化、これは完成ということなのですが、これによって現れています。

  このことから、「更生した人は善いことができる」というよりは、ともかく善いことをやってみるということから更生するということもできるのではないか、と思います。

  最初に述べたような心理教育は、そのものの理論的なところによるのかどうかは分かりませんが、何かを身につけるというよりは、挑戦できる場作りを学校全体でやるなかに一つのきっかけとしておかれるとうまくいくのではないか。

  そのようなことを思いました。以上で私の発表を終わります。

 (第3回は1月29日公開予定)

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著者略歴

  1. 松嶋 秀明

    滋賀県立大学人間文化学部人間関係学科教授。専門は臨床心理学。いわゆる「状況論」や「ナラティブアプローチ」を足がかりに,逸脱した子どもの立ち直りについて考えている。著書に『少年の「問題」/「問題」の少年:逸脱する少年が幸せになるということ』(新曜社、2019年)など。

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