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「道具と結果方法論」から見た学校臨床

第5回 ディスカッション(2)

松嶋       伊藤さんがまとめてくださったので、自分の言いたいことが明らかになってきた感があります。どうしたら「挑戦できる場」を作れるのかがやはり一番大事なところかなと思っています。ただ、私は研究者でありつつ、スクールカウンセラーとしても学校の場に入っていて、片方ではSSTみたいな心理教育をしてくださいと言われる立場でもあります。学校のなかに入ると、やっぱりこういった生徒、不登校の生徒であれ非行の生徒であれ、教室に入るとか、学校に戻るというのがある種の適応になるという、そういう尺度でしか評価されないところもあるかと思います。

  それから、伊藤さんからCOVID-19禍における学校の話もありましたが、やっぱり学校は元に戻るのがとても早い組織だと思います。COVID-19に限りません。私が最初にスクールカウンセラーで赴任した学校は、3~4年間ぐらいで教育相談体制がずいぶん変わって、子どもを支えるために教師の協働が進んだんですが、私がいなくなって何年間かするとまったくもう元に戻っていたということがありました。社会文化的アプローチの枠組みから学校変革にたずさわっている海外の研究者も、わりといろいろな本のなかで同じようなことを書いていますね。何年後かに再訪したら元に戻っていたというような。学校というのはわりと変化に強い、すぐ元に戻ってしまうような組織なのかなということは思います。ですから、自分がかかわり続けるなかにおいて、どういうふうに「挑戦できる場づくり」をしたらいいのかというのが、すごく難しいと思います。

  私が話題提供した事例のなかで言えば、アキにとって「挑戦できるような場」を作れたのは、皮肉なことにと言うか、学校にいわゆる「適応」しなかったからできたことというようなところがあります。つまり、学校にいないので、なまじ勉強のことについて教師は言わなくてもよくなったというところがありますし、授業に出ないので、授業中の振る舞いについて注意する必要がなくなったということがありました。あとは、授業にでないでフラフラしている生徒をどう受け止めるかというところをなんとかすればよかったので、特別なかかわりというのがやりやすかったことがあるかと思うんです。まとめれば、「挑戦できる場作り」を、アキは生徒指導の先生と一緒に作っていけたのかなと思うんですけれど、それがなぜ可能になったのかというと、アキがかなり、いわゆる学校的な枠組みを突っ切っていたというところが大きかったのではと思います。

  話題提供では時間の都合で割愛しましたが、私が出した本のなかでは、アキと同時にコウヘイという子のことも取り上げています。アキや学校に入れない子たちをなんとか変えるために先生たちがやっていることは、学校の場作りと言いますか、クラスの人間関係を充実させ、生徒にとってクラスにいることが楽しくなるようにすることを通して、教室外に出ている生徒たちにも入りやすい関係を作ることでした。そこに乗ることで、コウヘイという子は、中学2年生の終わりぐらいから「学校が最近楽しいねん」と、教室に入るようになったんですね。勉強は全然できないんですけれども。

  ただ、入るようになったために、3年生になると、逆に、自分が勉強はできないことを強く意識するようになって……。みんなと一緒にいて楽しいからクラスに入っているんですけども、それと同時に、クラスのなかではみんなが受験モードに入っているのに対して、自分はそこに入れないことに気がついて、 学校に来るのをやめてしまうということがありました。来たくても来れないというような、不安で不安でしょうがないような状況になることがありました。

  だから、一概に適応と言っても、何がよくて何が悪くなるのかというのは、言い難い。アキにとっては突っ切っていったために、「挑戦できる場づくり」がある意味で自由に作れるようになった。つまり、学校という枠組みの非常に弱いところで、できるようになったというところがありました。反対に、学校への適応のための道具立てにうまく乗れた子たちは、逆に、いざ進路がかかってくるときになると、結局、不適応な子として認定されていくことが出てきた。そうすると、何にどうしていくことが適応なのか、何がよくて何が悪いのかということが、非常に考えにくいと思いました。

グラフィックレコーディング: 岸磨貴子氏(明治大学)

 

伊藤       ありがとうございます。松嶋さんの本やご発表でも印象的だったのは、アキくんの後輩の子の保護者から感謝されたことをアキくんがすごく嬉しがった、と表現されていたことでした。学校の枠を超えた、地域に住むいろいろな人がつながったことが、一人の子の現実を動かしていたという言い方もできるのではと思いました。そういう観点で見ると、川俣さんの話で言えば、AさんにとってB先生は、その人のために頑張りたいという人になっていたのではないかと思います。要するに、つながる人の範囲が広がるということがポジティブな効果をもっていたのではないでしょうか。

 

川俣       そもそもの問題として、改善プログラムを真似てやってみましょうとなったときに、それはなぜ、誰のためにあるのかということがもともと曖昧だったと思います。

  先生方は、Aさんが教室で快適に過ごせるようにとプログラムを始めたんです。でもAさんにしてみると、何のためにしてるんだろうか、でもやってみようと言われたから、やるのかなと思っていたかもしれない。また、クラスにいる子たちも、先生がAさんをチェックしているのは分かっていたものの、その意味についてはあまり分からなかったところはあったと思います。

  もう一つ大事なのは、行動改善の実践を始めたときには、AさんとAさんを取りまくコミュニティはとてもシリアスな雰囲気だったことです。これを達成しないと、この子はこのクラスにいれなくなってしまうという。すごく追い詰められたなかで実践を始めたわけです。

  ところが、B先生が現れることによって、B先生に認められたり、褒められたりしたいという目的がAさんに立ち上がってきて、行動改善プログラムがB先生へのアピールのツールになる。もう一つ面白いと思ったのは、深刻な状況だと誰もが思い込んでいたところ、AさんがB先生の前でアピールすることが、みんなにとってちょっと面白いことになった。今までは、Aさんがクラスに入れるか入れないかを判断するためのものとして実践を機能させようとしていたものが、あるときから、B先生に認められるためにAさんが頑張る、それを見て周りの人たちが楽しんでるという。つまり、プログラムを通じて何を達成するのか、どういうパフォーマンスをするのかが変わったのだと思うのです。言い換えるとその実践の意味が変わってきたことによって、学級がそれまでとは違う雰囲気になっていったように思うんです。

  そのことは、もっと静かにしなければいけないとか、もっととおとなしくしてなければいけないといった、既存の適応観とかドミナントなストーリーから離れていくチャンスになったと思います。また、Aさんに対する「いろいろなことができない、迷惑な存在」という意味づけが変わるきっかけになっていたとも思います。自分でも何と表現したらいいか分からないのですが、B先生の登場は、実践の枠組みそのものを変えていく役割を果たしたのではと思います。

 

松嶋       川俣さんのおっしゃっていたことを僕なりに理解すると、最初の頃は、教師が求めるような結果だけが目指されていて、Aさんにとっては、ただやるだけのことになっていて、そこに何の意味もなかったということなのかなと思いました。「道具と結果」と「結果のための道具」という対比があるわけですが、B先生が現れたことで、褒めてもらいたいとか、B先生といると楽しいとということが起こり、Aさんにとっても意味のある道具であって、同時に結果でもあると。そうして出てきた行動の善し悪しを言い出すとややこしくなるかもしれないんですけど、Aさんにとっては意味に満ちた行動になっているのではと思いました。

  SSTなどは、それ自体本人にとっては何も意味がないことを、学校的なニーズに基づいてやらされて、それによって本人の何かが変わることが求められている。私はそういうところに違和感をもっているのですが、そのことと、川俣さんの事例とでは、同じようなところがあるように理解しました。

 

伊藤       ありがとうございます。下のグラフィックレコーディングに今のお話が要約されています。

 

 

伊藤       意味づけが変わるというお話がありましたが、その変化のプロセスはどこかで終わるわけではなく、常に変わり続けてるのだと思うんです。たとえば、学校全体として、今現在、アキくんのような子たちの位置づけられ方が変わってきたといったことはあるのでしょうか。

 

松嶋       アキに対するあの3年間の後、先生方にインタビューしたりすると、迷いつつやられてた先生たちが、自分たちのやってきたことに自信をもって、他の学校に行っても同じようにやりたいといったようなことを言う先生が結構いました。異動先の学校に応じて、という先生も多かったんですけども、少なくとも、生徒の行動に翻弄されて何もできなかったわけではなかった。生徒に対応するやり方の一つとしてすごくよかったと。外野からの評価になりますが、アキくんの学年の先生たちは、一発で生徒に言うことを聞かせられない人たちばかり、一喝したりとか、「ちゃんと話を聞いてー!」と言って生徒をシーンとさせられる先生が一人もいらっしゃらなくて、ある意味(他の学年からすれば)しっかりしてくださいよと評価されるところも当初はあったそうなんです。先生方には、「やっぱりちゃんとやらさないと」という圧力がかかっていたのですが、当初の「ちゃんとする」ことはできなかったものの、しかし、できなかったからこそ、アキの言っていることが分かるようになったり、いろいろなところで発展していったりした。そういう可能性を見て、ある意味、自分たちがやってきたことは間違いでなかったなということが先生方自身で分かるようになってきた。そういうことはあるかなと思いますね。そういう点はすごくよかったのかな。

  この前、アキの担任に会いました。「悪夢のような日々でした」みたいなことを言っていましたけれども、否定的な体験として終わるのではなく、ひとつ乗り越えてるというか、見方が変わったということは確かにあるのかなと。

 

伊藤       ありがとうございます。教師自身も一人の当事者だと思うので、意味の布置、意味のフォーメーションが変わっていくことが面白いポイントではとも思っています。

 

川俣       今までの私の経験を思い出すと、現実にはこのポジティブな変化がずっと続くとは限らないと思います。たとえば、B先生が現れたことで、行動改善の実践が、周囲の人々にとってはAさんをめぐる面白いものになって、先生方もいい雰囲気になった。そう思っていても、翌年に先生が変わったり、クラスメイトが変わったりして、行動改善の実践のニュアンスが失われ、枠組みだけ残るわけです。「これをやったら去年は効果的でしたよと」か言って。それだけが継続すると、また元のあまり面白くない、しかもあまり効果もないものに戻ってしまう。そうすると今度は、周りの人がおかしいなあ、去年は効果あったと言っていたけれど、これをやる意味はありますかね、やっぱりきちっと決まりは守らせるべきですよね、という話になってしまうのです。

  私たちは、AさんならAさんという人そのものが変わるというイメージをもってしまう。そこでは、人が変わるということのなかに、人々のいる文脈が変わるという歴史性が考慮されていない。すると、B先生込みのプログラムでAさんが面白くなったにもかかわらず、Aさんは朗らかですごく楽しい子になったことを期待してしまう。そういう新たな意味づけが発生してしまう。

  そうすると、環境が変わったり、文脈が変わったりしたときに、大事であるはずの関係性とか意味が抜け落ちてしまって、結局のところプログラムに効果があったとか、あるいは去年のAさんは適応的だったと意味づけされてしまうことがあると思います。ひるがえって、このプログラムには意味がないとか、Aさんは全然おとなしくないじゃないかといった話になって、元の「問題のあるAさん」のストーリーに戻ってしまう。そういうことが結構あるように感じています。

  そういった意味で、伊藤さんが意味づけには終わりがないみたいなことをおっしゃってたんですけど、逆に文脈から離れて意味づけを絶えずし直していくということが抜けてしまうと、また関係が崩れてしまうというようなことを結構たくさん経験してきました。人が変わるとはどういうことかというのもすごく難しいし、考えていかなければならないと思いました。

 

伊藤       お二人のお話を聞いていて、学校とは何かに対して価値づけをする機関だと思いました。今回のシンポジウムの当初の目的に戻れば、心理学理論は、心理学理論だけで成り立っているわけではなく、学校において役に立つから流通し、普及するという側面があると思うんです。そういう意味で、学校とは、何が役に立つのかを決める場になっているのかもしれない。何らかの心理学的理論が、たとえばSSTのようなものが学校のなかに入って、それがある文脈のなかで非常にうまくいくことは当然ある。ただ、どこかの学校でうまくいったことが、非常に付随的な価値になっていって、そのために非常に流通していくという側面があるように思いました。それが川俣さんの言ったことの言い換えになるかと思います。

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著者略歴

  1. 川俣 智路

    北海道教育大学大学院教育学研究科准教授。修士(教育学)。専門は臨床心理学、教育心理学。学校における思春期の子どもたちの「適応」や「学びやすい」学習環境に関心がある。近著にEducating Adolescents Around the Globe: Becoming Who You Are in a World Full of Expectations (Cultural Psychology of Education Book 11)(共著、Springer、2020 年)、「学校における支援の視点」(分担執筆『そだちの科学』34、日本評論社、2020 年)、訳書に『革命のヴィゴツキー――もうひとつの「発達の最近接領域」理論』(共訳,新曜社,2020年)などがある。

  2. 松嶋 秀明

    滋賀県立大学人間文化学部人間関係学科教授。専門は臨床心理学。いわゆる「状況論」や「ナラティブアプローチ」を足がかりに,逸脱した子どもの立ち直りについて考えている。著書に『少年の「問題」/「問題」の少年:逸脱する少年が幸せになるということ』(新曜社、2019年)など。

  3. 伊藤 崇

    北海道大学大学院教育学研究院准教授。博士(心理学)。専門は言語発達論、発達心理学。文化歴史的アプローチに立ち、子どもの言語発達を考えている。著書に『大人につきあう子どもたち――子育てへの文化歴史的アプローチ』(共立出版、2020年)、『学びのエクササイズ 子どもの発達とことば』(ひつじ書房、2018年)、『ワードマップ 状況と活動の心理学――コンセプト・方法・実践』(共編著、新曜社、2012年)、訳書に『革命のヴィゴツキー――もうひとつの「発達の最近接領域」理論』(共訳、新曜社、2020年)がある。

  4. 岸 磨貴子

    明治大学国際日本学部 准教授。専門は教育工学。研究テーマは「多様性をつなげる教育、多様性がつながる学習環境デザイン」。中東(シリア、パレスチナ、トルコ)を中心に、難民など社会的脆弱な立場におかれる子どもの学習発達支援がライフワーク。難民に「なってしまった」ことで、母国でやっていたようにできなくなって、自信を失ったり、どうせ自分は……と未来への可能性を狭めてしまうことがある。この問題に対して、「ない」ではなく「ある」ことに目をむけ、難民たちが自分たちで活動をはじめていける「場のデザイン」としてパフォーマンス心理学を実践。共訳書に『パフォーマンス心理学――共生と発達のアート』(https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455390.html)、本書の姉妹本にあたる『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る――知識偏重社会への警鐘』(ロイス・ホルツマン,著/岸磨貴子・石田喜美・茂呂雄二,編訳/ナカニシヤ出版 http://www.nakanishiya.co.jp/book/b541244.html)がある。今回は、グラフィックレコーダーとして参加。

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