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「道具と結果方法論」から見た学校臨床

第7回 質疑応答(2)

伊藤       では、画面の向こうのみなさまからのご質問をお受けできればと思います。はい、佐藤先生、お願いします。

 

佐藤公治さん(北海道大学名誉教授)からのご質問

 

佐藤       少し前に戻ってしまうかもしれませんが、やはり今日の話は道具と結果についての議論だと思うんです。ご存知だと思うんですが、道具と結果の話というのは、実はヴィゴツキーの『文化的歴史的精神発達の理論』(柴田義松監訳、2005年、学文社)の第2章「研究の方法」の冒頭に出てくる話なんです。方法は研究の道具であると同時に結果であると、要するに結果というのは、どういう結果を生み出すのかという、そういう話なんです。この後は延々と、具体的な研究、心理学の研究がどうあるべきなのかということが議論されていく、その前振りの部分です。

 結局、ここで言われていることをニューマンとホルツマンたちは、実践の問題だと読み替えて、広げている。分からないことはないんですよ。というのは、実はヴィゴツキーは『心理学における道具主義的方法』(柴田義松・藤本卓・森岡修一訳『心理学の危機:歴史的意味と方法論の研究』、1987年、明治図書所収)という論文で、似たような話をしている。それは、僕たちのいろいろな実践は、歴史を作っていくことだという話です。だから、心理学も歴史的な視点をもたないといけないという話をしているんですよ。そういう視点で言っていると、結局は、実践のためどうあるべきかということは、新しい心理学を作っていく、ないしは歴史を作っていくという話になっていく。ですから、そのときも、歴史はやっぱり動くのだ、あるいは我々の人間に対するいろいろな見方も変わらなければいけない、という話をしていると思うんです。

  ですから、訳書本文の192頁で引用されているヴィゴツキーの『思考と言語』の第7章で言っている「思考は、言葉で表現されるのではなく、言葉で完成する」と訳されているところの完成、コンプリートというのは、ロシア語でどう言っているかというのはやっぱり確認しないといけないんですけども、柴田義松先生が言う「遂行」という意味もあると思います。なぜかというと、完成すると動かなくなってしまうから。実際は、プロセスですから動かないといけないんですよ。そうなると完成しながらも、あとは壊していくという、そういう意味も入ってると思うんです。

  すると、今日の松嶋さんと川俣さんのお話によれば、結局は、学習者が状況をどのように定義するかという話になると思うんです。それは、人がどういう場面でどう行動するかということに関する状況の定義も、学習者自身が変えていくことだと思うんです。それによって周りが変わってくる。先ほどの質問のなかで、問題の意味づけがどう変わったのかというご指摘がありましたけれども。実はそこなのでは。誰が変わったかというと、学校の先生ではないと思います。学校の先生を含めた当事者の子どもたちが、私はこんなふうにするんだということをやったときに動くんだと思いますね。そういう視点をもたなければいけないということを、松嶋さんや川俣さんはおっしゃってるのかなと、僕は聞いたんです。そのあたりをまたお二人からお聞きしたいです。

  要するに学校は、僕に言わせれば、良心的な押し付けなんですよ。こうあるべきだということを、子どもたちにを押し付けてしまうことが強いんだと思うんです。それに対して子どもたちはやっぱり抵抗する。ないしは、「いや、違うんだ」という形で動いてもいいんじゃないか、というかな。だから、認知行動療法的なもの、川俣さんが言うような行動改善プログラムはやっぱり胡散臭いというか、枠づけされてしまう。そんなとき、(今までからは)ずれた先生がいた、あるいはずれた状況に自分の身を置いたときに、自分が変わっていくという気がするんです。そういう可能性をもたないといけない。我々のような学校の教員を含めて。そういう視点をもつことによって、子どもたちは多少変わってくるということがあると思うんです。

  ただ同時に、学校はやっぱり強力な装置なので、コロナウイルスで今の子どもたちが学校から離れてストレスになっているというのは、それはそれでいいのかという問題もあると思うんです。そのあたりは、まさに適応と不適応のせめぎ合いのなかで、どう動いたらいいのかということだね。あるいは、子どもたちに全部丸投げしてしまっていいのか、というものもちろんある。つまり、我々大人がやることは、その子どもを含めた状況の定義をどう変えていけるかという、あるいはそのなかで、当事者である子どもたち自身も、その状況を変えれるんだという視点をどこまでもてるかというか。僕はずっと小中学校の現場に行っていたことがあるんですけど、やっぱり学校は息苦しいですよ。学校は、自由でいいのではという気がします。そのように視点を変えるのが、我々学校現場にかかわっている研究者のもつべきもう一つの価値観ではないか、とニューマンとホルツマン先生たちは言ってるのかなと僕は受け止めたんです。そういうことによる変革の可能性を見ようとしていたのかな、と思いました。川俣さん、松嶋さん、あるいは伊藤さんはどう考えているのかを聞きたいです。

 

伊藤       ありがとうございました。いかがですか、松嶋さん。

 

松嶋       ありがとうございます。学習者にとっての状況の定義を変えていくとおっしゃっていただいたかと思うんですが、これは結局、私が言いたかったことをうまく言ってくださっているように思います。

  結局、アキにしても、他の子にしても、学校で学ぶことの意味を見い出せずに、そこでやることにどんな意味があるのかを見い出せないところがある。しかし、学校は楽しいところだということ、あるいは、学校でいい経験できたということは、学んでいるんだろうと思います。それを受けて先生たちは、学力保障はできなかったけれども、自分たちがやってきたことで、あんがい別のことができたのではと改めて気づくということもあるように思います。そういう場を作っていく上で、研究者がもっと参画しなければいけないのではと最近ますます思っていて、学校のよさのような部分をもっと考えたいと思っていたんです。ただ、学校活動にかかわったりすると、学校のもっている限界のような部分も、やっぱりたくさん見えてきます。もっと自由にやってもいいはずなのに、こうしなければいけない、ということが決まっているわけではないのに、なんとなく学校というのはこういう場である、と考えでやっているように思うんです。そういうことを、研究者の方がもっと意識してやっていくといいのかなと思います。そういうことを、学校に否定されない程度に、うまく持ち込んでいくことが大事かなと思っています。

 

伊藤       川俣さんいかがですか。

 

川俣       私はスクールカウンセラーとして、あるいはセラピストのような立場として学校にかかわるときもあれば、研究者として入るときもあるんですが、佐藤先生におっしゃっていただいたこと、とてもよく分かるなあと思って伺ってました。松嶋さんに言っていただいたことと、基本は同じだなと思ったんですが、同時に、学校にかかわっていたり、たとえば今回のAさんの事例なんかを見たりしていると、先生から子どもへのアプローチになっているとか、学校側の枠組みを押し付けていることに、すごく息苦しさを感じたり難しさを感じたりすることがあります。同時に、見ていくなかで、先生自身も変わっていくことも。「なんか、これすごく面白いね」とか、「子どもの見方が変わったね」とか、学校の枠組みが変わるとまではいかなくても、見方が変わり、何かが壊れて、「あ!こんなふうに思ってたけど、別にこだわらなくてもよかったね」というような瞬間が訪れることもあります。そういうことをとても大切にしていかなければならないと思います。学校を息苦しいと思うと同時に、そのなかでこういった出来事を知ったり、学ぶことによって壊されるものがあったり、しかも壊した喜びみたいなものを共有できることもあったりするんですね。改めて、今お話しされたようなことを自分もやっていかなければいけないし、仲間と一緒にやっていかなければならないと認識しました。

グラフィックレコーディング: 岸磨貴子氏(明治大学)

 

伊藤       佐藤先生のおっしゃっていたことを受けると、私たちは子どもたちを、意味づけるものとして扱わなければいけないということだと思うんです。

  子どもたちは、学校のさまざまなものにいろいろな意味づけをしている。「あの先生はこうだよね」とか、たとえば「給食というものはこうだよね」といったように意味づけていると思うんです。ですが、不思議と、授業という場は、そうした意味づけそのものを語ることができない場だと思うんです。

  そうした意味づけは、実際には放課後や家庭において語られるんですが、大人から学校という「オファー」を受けた子ども自身がそれをどうやって意味づけるかを見ていく必要があるのでしょう。「意味づける者」として子どもを遇することを考えていかなければならないと思いました。

 

 岡花祈一郎さんが手を挙げていますね。どうぞ。

  

岡花祈一郎さん(琉球大学)からのご質問

 

岡花       岡花です。先ほどのスライドでの最後の質問した者です。感想も含めてお話をしたいと思います。

  道具と結果方法論はとても面白くて、実践としては非常に分かるんです。ホルツマンが行っている実践でも、たとえば、ホームレスの方に対して社会に適応させようとして、就労支援プログラムを組み立てるわけではないですね。その代わりに、インプロしたりダンスをしたり、パフォーマンスをする。それによって、結果として、社会に適応していく人もいるし、そうではない方もいらっしゃる。たぶん、今回のお二人の発表もそういったところがあると思うんですけども、適応するためのプログラムを組んだとしても、なかなかうまくそこにはまっていかないけれど、何気ない先生とのやりとりであったり、そういったなかで子どもたちが自分の居場所を見つけていく。そうした実践としてはとてもよく分かるんですが、それを研究にしようとしたときに、結局は適応しましたという方向性にもっていかざるを得ない。つまり、学校をやめましたとか、学校に適応しなかった、という話にはなかなかもって来れないのではと思ったんです。

  ホルツマンが考えてるのは、社会があったり正しい学校像があって、そこに適応するために何かするのではなくて、社会や学校自体を作り変えていこうという話なのではと思いました。研究者として、そこに入って行って実践する部分ではいいんですが、研究としてまとめるときに、結局、適応から外れていくような行動は分析対象になるのだろうかと思ったので、そのあたりを聞きたかったのですが、いかがでしょうか。

  

松嶋       やっぱり、どんどん落ちこぼれてしまうといった話はどこまで描けるのかは難しいと思います。というより、私自身に、子どもがきちんと大人になって元気に、楽しくこの社会で生きていってほしいという思いがあるんです。僕が去年出した本でも、「子どもが幸せになるために」という副題を書きました。

  何のために学校があるのかと言ったら、社会化のためであるといった説明がされるわけですが、学校でうまくやれることがその後の人生においてうまくやれることではない、ということは思います。アキくんなんかは、学校的な枠組みにはまってしまえば、むしろみんなから注目されないかもしれないような子なんです。ですから、逸脱しているからといって、元に戻れといったところでアキくんは幸せにはつながらないと思うんです。

  でも、一人の研究者として、アキのような存在が、学校的な枠組みに染まらなくてもいいんだけれど、みんな人として、幸せに生きていってもらいたいなというのはあります。そこから離れていく人たちをそのまま書き続けるというのは、自分としてはできないですね。僕が話題提供した例で言えば、3年間の中学校生活の後も、子どもたちをなんとなくはフォローしていますが、彼らがどういうふうに生きてるのかというなかでしか語れない。全然わけの分からないことになってしまったというところまではいけないと思いますね。そういう意味で、学校という場に適応しなくてもいいんだけれども、よく生きていてほしい、ということはあります。そういう部分で、研究としての方向づけのようなものはあるように思います。研究として書かれたものは、ある意味では適応するというか、いい話に落ち着いていると思うんですが、そこは僕としては外せないところです。

 

川俣       すごく難しい質問です。私は事例を紹介しているときに、適応できた事例だと思って紹介をしていなかったということがあります。見る人から見ればそういうふうに見えるのかもしれませんね。

  いわゆる一般的な適応とか、枠にはまっていくというストーリーに収めようとは全然思っていないんです。ただ、果たして私が提示した事例は、枠にはまった適応的なものなのだろうか、というところを、まず自分自身で検討してみたいと思いました。事例の記述が厚くなかったから伝わらなかったところもあると思いますし、適応なるものをどのように考えるかについて、まだ共有できていない部分もあったかもしれません。個人的には、たとえば、学校をやめてしまいましたとか、教室から飛び出して教室に入れなくなりましたといったストーリーが悪いとか、そういうものは研究対象にならないといったふうには考えたことはないんです。ただ、もう少しこれから考えていきたい問題だと思って伺いました。

(第8回:最終回へ)

 

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著者略歴

  1. 川俣 智路

    北海道教育大学大学院教育学研究科准教授。修士(教育学)。専門は臨床心理学、教育心理学。学校における思春期の子どもたちの「適応」や「学びやすい」学習環境に関心がある。近著にEducating Adolescents Around the Globe: Becoming Who You Are in a World Full of Expectations (Cultural Psychology of Education Book 11)(共著、Springer、2020 年)、「学校における支援の視点」(分担執筆『そだちの科学』34、日本評論社、2020 年)、訳書に『革命のヴィゴツキー――もうひとつの「発達の最近接領域」理論』(共訳,新曜社,2020年)などがある。

  2. 松嶋 秀明

    滋賀県立大学人間文化学部人間関係学科教授。専門は臨床心理学。いわゆる「状況論」や「ナラティブアプローチ」を足がかりに,逸脱した子どもの立ち直りについて考えている。著書に『少年の「問題」/「問題」の少年:逸脱する少年が幸せになるということ』(新曜社、2019年)など。

  3. 伊藤 崇

    北海道大学大学院教育学研究院准教授。博士(心理学)。専門は言語発達論、発達心理学。文化歴史的アプローチに立ち、子どもの言語発達を考えている。著書に『大人につきあう子どもたち――子育てへの文化歴史的アプローチ』(共立出版、2020年)、『学びのエクササイズ 子どもの発達とことば』(ひつじ書房、2018年)、『ワードマップ 状況と活動の心理学――コンセプト・方法・実践』(共編著、新曜社、2012年)、訳書に『革命のヴィゴツキー――もうひとつの「発達の最近接領域」理論』(共訳、新曜社、2020年)がある。

  4. 岸 磨貴子

    明治大学国際日本学部 准教授。専門は教育工学。研究テーマは「多様性をつなげる教育、多様性がつながる学習環境デザイン」。中東(シリア、パレスチナ、トルコ)を中心に、難民など社会的脆弱な立場におかれる子どもの学習発達支援がライフワーク。難民に「なってしまった」ことで、母国でやっていたようにできなくなって、自信を失ったり、どうせ自分は……と未来への可能性を狭めてしまうことがある。この問題に対して、「ない」ではなく「ある」ことに目をむけ、難民たちが自分たちで活動をはじめていける「場のデザイン」としてパフォーマンス心理学を実践。共訳書に『パフォーマンス心理学――共生と発達のアート』(https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455390.html)、本書の姉妹本にあたる『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る――知識偏重社会への警鐘』(ロイス・ホルツマン,著/岸磨貴子・石田喜美・茂呂雄二,編訳/ナカニシヤ出版 http://www.nakanishiya.co.jp/book/b541244.html)がある。今回は、グラフィックレコーダーとして参加。

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