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「道具と結果方法論」から見た学校臨床

第6回 質疑応答(1)

伊藤       それではここから質問を受けて回答をしていただく時間にします。

  一つめは、石田喜美さんからのご質問です。

 

*石田喜美さん(横浜国立大学)からのご質問

 「道具と結果方法論」の立場をとろうとするお二人は、既存の「道具」(この場合は、心理学的「道具」)との関係をどのようにとらえていますか?

  松嶋先生のお話のなかでもあったように、心理学的「道具」は、「結果のための道具方法論」の象徴のように扱われることが多いと思います。「道具と結果」「結果のための道具」を単純に二項対立的にとらえれば、「既存の心理学的「道具」(SSTや問題行動改善プログラム)は『結果のための道具」方法論に埋め込まれたものだから、それを用いた実践は発達的でない!」ということになるでしょう。

  しかし、川俣先生のご紹介されている事例において、既存の心理学的「道具」はそれなりに意味をもつものとして存在しているように思います。

  川俣先生も、もともとの問題行動改善プログラムの意味が、もともと有していたものから外れていき、「ちょっとそれとは違う」ものになってしまっていた、ということに言及しておられました。

   松嶋先生の事例のなかでは、直接的にSSTについて言及されている部分はありませんが、松嶋先生ご自身も、既存の心理学的「道具」の使用そのものを否定しているわけではない、と解釈しています。

  今回は、学校臨床についてのお話ですが、学校教育の文脈においても、「一人ひとりをいかす教育(Differentiated Instruction)」における評価の考え方のなかで、「…まして、生徒に、特定の学習スタイルや知的好みのレッテルを貼り付けたり、学習スタイルについての仮説に基づいた課題を課したりすることは手助けになりません」としながらも、「どんな状況ではどんな学習へのアプローチが最もうまく機能するのかを生徒たちが自覚できるようにサポートしたり、よりよい学習成果をあげるためにアプローチを変えるタイミングがいつなのかを分かるように導いたり」するために、多様なアプローチを提供することは重要だと言っています(C. A. トムリンソン & T. R. ムーン『一人ひとりをいかす評価』、北大路書房, 2018年、p18)。認知スタイル論や多重知能論といった、ある種の心理学的「道具」によって、子どもたちのレッテル貼りをしたり、認知スタイルを固定的に見ることには弊害しかない。けれども、そういうものを参考にしながら、子どもたちが自分の好きな・得意な認知スタイルを探っていったり、選んでいったりできるようにすることには、意味がある――ここで提案されているのはそういうバランスのとり方だと思うのです。

  私自身でも、上記のような考えに基づきながら、子どもと教員が「遊び」のなかで、自分の認知スタイルみたいなものをいろいろ試してみられるような仕組みが考えられないか、と思いつつプロジェクトの企画を進めているところだったので、ぜひこのことについて、お二人のお考えをお聞きしたいと思いました。

  

伊藤       「結果のための道具方法論」ですと、予想された結果を導くものとして道具が用意されている。そこには我々がすでに知っている結果しかないわけですから、発達的ではないととらえられるのですが、そのような考え方はニューマンとホルツマンが否定するものであるわけです。では、お二人は、心理学者としての我々のもっている道具を、どう考えておられるのでしょうかというご質問ですね。

 

川俣       興味深い質問をありがとうございます。考えていることを共有させていただきますと、ご質問の後半に書いてあるように、私はここの文脈とは全然違う文脈で、学習環境のことや、学習支援のことについて考えたりすることもあるんです。そういう文脈では、心理テク的な知見を引用してこういうふうにしたらいいのではないかといった形で心理学を道具として活用することがあります。ご質問でも、子どもの認知スタイルを固定的に見ることには弊害しかないけれども、そういうのを参考にしながら、いろいろ実践していくことに意味があるのではと書かれていて、まさにそのような意味はあるのではと思います。また、自分が、こういう方法がありますよと提示をするときも、心理学的な道具が、実践を意味づけし直したりするための一つのきっかけになることはあるだろうとは思います。

  ただ難しいのは、意味づけ直す道具として先に立ててしまうと、そこでまた意味が固定的になってしまって、だめになってしまう。大事なのは、心理学的な道具はそういうものとしてあるけれど、道具の意味や使い方、役割もどんどん変わっていってしまうし、私たち自身が道具に使われるのではなく、こちら側もその利用の仕方を変える。柔軟と言うと曖昧な表現ですが、そうすることを妨げないようにするのがすごく大事だと思うんです。よく陥ってしまう失敗は、こういうふうに使ってほしいとか、こういう目的でやろうと思って何かを道具として投入してみたら、全然違う使われ方をされたときに、「いや、それはこうやって使うんだよ」とつい言ってしまうんです。そうするとツールの意味づけが固定されてしまって、実践が停滞したり、面白くなくなっていくんです。その変わった使い方とか、思ってもいなかった使い方をこちらも楽しめて、受け入れられる、意味づけられると、当初の目的ではないけれども、何かが変わっていく、実践が変わっていくことが経験できるかなと感じています。そういうことを、この質問を通して思いました。お尋ねになっていることはよく経験するというのが、私の返答というか感想です。

 

松嶋       SSTは、理論的なところで僕は反対で、「結果のための道具方法論」はあまり生産的でないのではとも思います。私の話題提供のなかでも少し述べたかと思うんですけれども、セラピーとは人が自分の内面について語る活動ですが、それはセラピーが従来描いてたような、その人の内面の本当の自分に突き当たると人が変わっていくというものではないとホルツマンとニューマンが言っている。

  とは言いつつも、カウンセリングやセラピーに来て自分を語っていると、すごく元気になる人が多いというのも経験的事実としてある。それはどういうことなんだろうと考えたときに、ホルツマンとニューマンは、精神分析などが言っているような意味でカウンセリングやセラピーが使われているわけではなくて、「完成」されるからいいのだという話をしています。ですので、SSTも、どういう場に置かれて、どのように使われるかによっては、よいこともある。

  川俣さんの言っていることとほとんど一緒かと思うんですが、SSTなどの道具はこう使うんだよと私自身があまり言わない。最近も、子どもと遊んでいて子どもが自由な遊具の遊び方を考えついたりすると、いやこれはこういういうルールだから、一つ抜かしのようなルールにないことをしたらだめじゃないか、とかそういうことを言ってしまい、盛り下げてしまう。そうではなく、面白くなるようにしていく。ルールを守らせることが大事なのではなく、楽しく遊ぶことが大事だとなれば、また違ってくる。SSTがそういう実践者なりのアレンジにどれくらい耐えられるかどうかが分からないのですが、SST自体は実践としては良くも悪くもない。それは実践によっていて、SSTがどういう場に埋め込まれているのかによって評価が変わってくるのではと思います。SSTというもの自体が、大きな意味をもっている場になるようなこともあるのではないかと思います。

 

伊藤       ありがとうございました。二つめの質問に行きたいと思います。ジョセフ・トマシーンさんからの質問です。

 

ジョセフ・トマシーンさん(北海道大学大学院教育学院)からのご質問

 松嶋先生へ

  データ収集の過程に発生する「語り」は、データ収集という活動に参加することによって「完成」される教員自身の発達を見るための材料でもあるかと思いますが、そうなると調査の本来の目的である、教育実践における生徒の発達の「完成」という実質的な現象を見失う可能性があるので、二つの「完成」の分析を(可能であるかどうかも含めて)どう統合すればよいかについてのヒントを、ニューマンとホルツマンの「道具と結果」方法論から学ぶことはできますか。

 川俣先生へ

  Aさんへの「行動改善」を目的とした取り組みにB先生が加わったことは、いかに転機をもたらしたことが伺えます。その本質というものに近づくために、AさんがB先生のことをとても気に入ったように周りから見えたことや、AさんがB先生のために頑張っているように周りから「見えた」こと等、「良い行動」でも「悪い行動」でもないまったく別のこの行動への担任やクラスメイトによる意味づけこそが、Aさんに対する評価の変化に深く関連していると思います。このような「意味づけの実践」を調査するに当たって、ニューマンとホルツマンの「道具と結果の方法論」から何が学べるでしょうか。

  

松嶋       たぶん、教師と生徒に分けて考えられるものではなくて、生徒の発達イコール教師自身が変わる、ということでもあると思います。それに、教師と私たち研究者との付き合い方も変わってくる。それは、全体が変わっているということなのではないでしょうか。

  つまり、生徒の発達の完成と、もう一つの(教師-生徒間の)完成の関係をどう考えればいいのかというのは、その二つを分けて考えるのではなく、全体的な布置が変わってくるということなのではと思います。

  教員と私たち研究者との付き合い方がどう変わるのかという点について言うと、今回私が発表した事例については、その点については厚くは書いていないので、検証はしかねるところなんです。もっと広くとらえて、私たち自身の見方もどう変わっていったのかといったことも含めて考えると、とても面白いのではと思いました。

グラフィックレコーディング: 岸磨貴子氏(明治大学)

川俣       とてもいろいろなことを考えさせられる質問ですね。道具と結果方法論について考えていて一つ腑に落ちたのは、aを身につけてbを身につけてcを身につけたら適応的な子になるというふうに私たちは考えて、目標までを分解して一個一個やっていけば辿り着くだろうと考える傾向があると思うんです。

  ですが、道具と結果方法論とはそういうものではない。とりあえず適応的な行為をやってみた、すると、こうなったという。とりあえずやってみた。そうするとこうなった。そういう見方ができると思うんです。「とりあえず」と言うと、参加されている方から見るとすごくいい加減に聞こえるかもしれないですけれども、この「やってみた」ことが、実践の意味づけを変えていく上で、とても大切なんです。

  意味づけが変わっていったというのも、いろいろ積み重ねて変わっていったというよりは、とりあえずやってみたことによって、引っ張られるように意味づけが変わってきたと思います。つまり、道具と結果方法論を学ぶと、実践の変化や逸脱を成長として意味づけられる、そういう側面があると思います。「何か学べるか」どうかは難しいですけど、『革命のヴィゴツキー』のような本を訳していたりとか、読んでいたりすると、「ああ、そういうことなんだな」と急に気がついたりするときはあります。「何かが学べます」とは言えないと思うんですが、私自身は、そういうことをハッと思い立った瞬間がありました。きっとご質問していただいた方も、この本を読むことで思い当たる瞬間が来るのではと思いますので、ぜひ新曜社のウェブサイトから買い求めいただければなと思います(笑)。

  

伊藤       三つめは、岡花祈一郎さんからのご質問です。

 

岡花祈一郎さん(琉球大学)からのご質問

 

質問1

 「道具と結果」方法論は、心理学における「適応」という概念自体を問い直すラディカルな側面があるのではないかと感じます。

  松嶋先生、川俣先生、お二人の事例でも、学校への適応をめぐって、適応させようと規範的な指導(行動改善プログラムなど)ではなく、ふだんの何気ない対話(アキの話をじっくり聞いてみる、AにとってのB先生との関係性)が、重要な個を生きる実践につながっていたと思います(パフォーマンスという革命的実践となっていた)。

  ただ、それを分析考察するとき、どうしても「適応」という物語(学校が楽しくなった、教室に入れるようになった)に回収されてしまいがち、なのかなと感じました。『革命のヴィゴツキー』のなかで、ホルツマンは、革命的活動の代表例として遊びを挙げ、以下のようなことを述べています。

 

「遊びは、適応であると同時に、適応への抵抗でもある」(邦訳、148頁)

 

 お二人のご研究のなかで、「適応への抵抗」はどう位置づけられるでしょうか?

 

質問2

 「道具と結果」方法論は、実践としてはよく理解できるのですが、研究として論文化できるのでしょうか?学部生・院生が「道具と結果」方法論で論文を書きたいと言われたら、どうご指導されますか?

  

伊藤       質問2に関して言いますと、論文を書くというから少し離れてるような感じがあるかもしれませんが、たとえば、今まで論文を書いたことがない人が論文を書くという瞬間は、まさに、書けないと思っていたけれども、実は書いたら書けた。そこではパフォーマンスをしてるのではと思います。だから、学部生にとっては卒論を書くこと自体が、大学にあるものを使って、今までやったことのないことをやるという意味で、道具と結果方法論的な実践なのではと思います。

 

松嶋       道具と結果というのは、研究者の生き方そのものみたいな部分とか、フィールドのあり方そのものでもあるように思います。道具と結果方法論に基づいて論文を書いていくのは、道具と結果方法論に基づいて現象を解釈することではないだろうなと思います。

 

川俣       どういうことですか?

 

松嶋       道具と結果方法論に基づいてフィールドに入ってみたり、フィールドを眺めたりしていくなかで、新たに問題が生まれるのではと思うんです。書きたいことが出てくると。

 

川俣       なるほど。

 

松嶋       言いたいことが出てくるということですね。卒論に書きたいことが生まれたというような。それがパフォーマンスしていくというか、研究者をパフォーマンスする、研究者になっていくことだと。なんとなく分かりますか?

 

伊藤       科学の大きな役割の一つは、予測だと思うんです。一方で、現実がある形で動いて、振り返ってみたらこれはこうだったと記述することはあると思うんです。それは科学の一つの役割を捨ててはいるんだけれども、「道具と結果方法論」に基づいて事柄を動かした結果を書いてみるというのは、論文としてアリなのではという気はしました。

 

松嶋       この「適応への抵抗」ということについて、もうちょっと説明していただけると理解が深まります。なんとなく、SSTのような「結果のための道具方法論」みたいなものの位置づけについての石田さんのご質問と通ずるところもあるように思うんですが。

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著者略歴

  1. 川俣 智路

    北海道教育大学大学院教育学研究科准教授。修士(教育学)。専門は臨床心理学、教育心理学。学校における思春期の子どもたちの「適応」や「学びやすい」学習環境に関心がある。近著にEducating Adolescents Around the Globe: Becoming Who You Are in a World Full of Expectations (Cultural Psychology of Education Book 11)(共著、Springer、2020 年)、「学校における支援の視点」(分担執筆『そだちの科学』34、日本評論社、2020 年)、訳書に『革命のヴィゴツキー――もうひとつの「発達の最近接領域」理論』(共訳,新曜社,2020年)などがある。

  2. 松嶋 秀明

    滋賀県立大学人間文化学部人間関係学科教授。専門は臨床心理学。いわゆる「状況論」や「ナラティブアプローチ」を足がかりに,逸脱した子どもの立ち直りについて考えている。著書に『少年の「問題」/「問題」の少年:逸脱する少年が幸せになるということ』(新曜社、2019年)など。

  3. 伊藤 崇

    北海道大学大学院教育学研究院准教授。博士(心理学)。専門は言語発達論、発達心理学。文化歴史的アプローチに立ち、子どもの言語発達を考えている。著書に『大人につきあう子どもたち――子育てへの文化歴史的アプローチ』(共立出版、2020年)、『学びのエクササイズ 子どもの発達とことば』(ひつじ書房、2018年)、『ワードマップ 状況と活動の心理学――コンセプト・方法・実践』(共編著、新曜社、2012年)、訳書に『革命のヴィゴツキー――もうひとつの「発達の最近接領域」理論』(共訳、新曜社、2020年)がある。

  4. 岸 磨貴子

    明治大学国際日本学部 准教授。専門は教育工学。研究テーマは「多様性をつなげる教育、多様性がつながる学習環境デザイン」。中東(シリア、パレスチナ、トルコ)を中心に、難民など社会的脆弱な立場におかれる子どもの学習発達支援がライフワーク。難民に「なってしまった」ことで、母国でやっていたようにできなくなって、自信を失ったり、どうせ自分は……と未来への可能性を狭めてしまうことがある。この問題に対して、「ない」ではなく「ある」ことに目をむけ、難民たちが自分たちで活動をはじめていける「場のデザイン」としてパフォーマンス心理学を実践。共訳書に『パフォーマンス心理学――共生と発達のアート』(https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455390.html)、本書の姉妹本にあたる『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る――知識偏重社会への警鐘』(ロイス・ホルツマン,著/岸磨貴子・石田喜美・茂呂雄二,編訳/ナカニシヤ出版 http://www.nakanishiya.co.jp/book/b541244.html)がある。今回は、グラフィックレコーダーとして参加。

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