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「道具と結果方法論」から見た学校臨床

第4回 ディスカッション(1)

伊藤       それでは始めましょう。よろしくお願いします。なお、このミーティングでは、明治大学の岸磨貴子さんが議論の内容をJamboardで記録して、グラフィックレコーディングしていただいております。ありがとうございます。 

 さて、松嶋さんや川俣さん、そして私は、ニューヨークで活動しているロイス・ホルツマンのアプローチにさまざまな形で影響を受けています。今日は、みなさんと一緒にそのアプローチについて議論していきたいと考えています。

  道具と結果方法論についての理解を共有しておきたいと思います。そもそも、道具と結果方法論(tool and result methodology)とは、ロイス・ホルツマンと共同で研究していましたフレド・ニューマンの二人が中心となって考案した方法論です。詳しくは、川俣さんと私が翻訳をした『革命のヴィゴツキー』を読んでいただきたいのですが、大事なポイントが3点あると思っています。

グラフィックレコーディング: 岸磨貴子氏(明治大学)

 

 一つは、道具と結果方法論とは、人間の本質であるところの「革命的活動」の模倣であるということです。ニューマンとホルツマンの二人によれば、革命的活動が人間の本質だと見抜いたのがマルクスです。革命的活動とは、「いまここ」にあるものの「全体」を変革すること。つまり、環境に働きかけることを通して、自分また環境とともに変化するといったように、自己と環境の全体が変化するわけです。しかも、変化させるものを変化させ、その変化をまた変化させるといったように、連綿と続くプロセスとして理解することができます。ニューマンとホルツマンは、人間の本質を革命的活動としてとらえた上で、それを模倣する、つまり戦略的に応用することを考えている。

 

「私たちは、 革命的活動それ自体を模倣しなければならない。科学的に言えば、模倣された革命的活動…は、ZPDの「実験場」といくつものZPDとを同時に作る、歴史的にふさわしい《道具と結果》なのである。」(『革命のヴィゴツキー』224頁)

 

 ここにあるZPDとは「発達の最近接領域」(zone of proximal development)です。

 二つめのポイントは、道具と結果方法論は弁証法的な考え方だということです。道具と結果は、お互いにお互いの「前提条件」になっています。『革命のヴィゴツキー』のなかで、道具と結果方法論と対比されるのが、「結果のための道具方法論」(tool for result methodology)です。この方法論では、結果が先にあり、それに奉仕するものとして道具が作られていると理解されます。そこには時間的な、直線的な関係が前提されています。一方で、道具と結果方法論における道具と結果は、ニューマンとホルツマンによれば相互にお互いの前提条件ですから、どちらが先でどちらが後ということはない。『革命のヴィゴツキー』のなかでは、このように書かれています。

 

「まだ作られていない道具が、生産物の前提だからである。そうした道具は、概念としても、物理的存在としても、生産物に時間的に先立って存在するのではない。したがって、道具とそれが生産するものは、必然的に、生産された統一体なのである。」(『革命のヴィゴツキー』64頁)

 

 三つめのポイントは、パラダイムではなくて方法の実践であることです。状況論と呼ばれる認知科学の潮流においては、現実に対する見方を変えてみようという発想がありました。たとえば関係論的に見てみようという発想です。そこにおいては、見方を変えても現実それ自体は変わらない。パラダイムとは、まさに見方、認識の方法です。『革命のヴィゴツキー』のなかでニューマンとホルツマンが強く言っているのは、パラダイムではなくて、実践をしなければいけない。つまり見方を変えるだけでは意味がないと言っています。ここはとても大事なところだと思います。これが、私なりの道具と結果方法論の三つのポイントです。

 まとめますと、道具と結果方法論とは、歴史の結果として「いまここ」にある物事を再組織化する実践において、その物事の中から何かが「道具」となり、新たな「結果」が歴史的に生じていくプロセスを、戦略的に応用していこうとする実践の方法論ではないかと考えています。

 補足しますと、松嶋さんの動画で「完成」(complete)という概念が出てきました。この概念は、『思考と言語』(柴田義松訳, 2001年, 新読書社)だと「遂行」と訳されている言葉です。この概念について、ニューマンとホルツマンは、革命的活動の特徴の一つだと言っています。

 

「学習に導かれた発達という発見は、発達が学習を導くというピアジェ流の因果論的理論の単なる否定ではない。むしろそれは、一貫して表象と歴史を混同している人間発達の因果-直線的モデルの、徹底的な拒絶なのである。学習は発達に「先行」しない。学習と発達の関係は、決して時間的なものではない。むしろ、それら「二つ」は、活動的、歴史的な完成(completeness)という統一体を形成するのである。」(『革命のヴィゴツキー』217頁)

 

 学習と発達という二つのプロセスは、完成という形で統一体を形成すると言っています。お互いがお互いの前提条件になっている関係を完成と言っていると思います。あるものがそれだけで存在しているのではなく、ほかの何かと一緒になることによって初めて意味を成すという考え方を表すのに完成という言葉が用いられている。この完成を論理的に表現すると、Aと非A、つまりAでないものが同時にあるとなります。排中律にしたがえば、論理学的にはありえないことです。しかし、AでありかつAでないことがあり得て、これが完成の論理学なのだと『革命のヴィゴツキー』では表現されています。

 ここまで本日のシンポジウムでの議論の前提となることを『革命のヴィゴツキー』を用いて確認してきました。続きまして、松嶋さんと川俣さんから、事前視聴動画の補足説明をお願いします。

  

松嶋       みなさんおはようございます。松嶋です。今日は、伊藤さんと川俣さんが訳された本にある道具と結果方法論がメインのひとつになると思います。私は全部十分に理解できているかどうかちょっと分かりません。私の方であまりホルツマンの議論を主体的に考えてこなかったところがあります。昨年、私も本(『少年の「問題」/「問題」の少年』)を出したのですが、そのなかでは(道具と結果方法論を)十分取り上げられませんでしたが、考えてみると結構使える部分があるのかなと。わりと同じようなことを言っていると思うところもあります。その本のなかで使った事例を用いて、ホルツマン流に再解釈してみると、このようになるのではないかと議論したのが事前視聴していただいた動画です。

 自分のこの研究の背景になっているのは、ある荒れた学校に私が入って、そこで3年間、荒れた子、荒れの中心にいる子たちと、いろいろやりとりしたフィールドワークです。そこで起きたことを記述したことが元々の私の研究になります。

 私の研究を読んでいただければ分かると思いますが、私の方法論としては臨床心理学がバックグラウンドではあるのですが、社会文化歴史的なアプローチや状況論に対して強くシンパシーを感じていて、自分の中の方法論として使っていた部分があります。

 元々の私の関心は、荒れた子、非行少年と呼ばれているような子たち、非行というほどでもないけれども学校のなかで逸脱的な行為をする子どもたちをどのように理解したらいいかという点にあります。それを、彼ら自身の問題に帰して、それをいかに修正するかというアプローチが臨床心理学のなかではわりとあるように思います。ソーシャルスキルトレーニング(SST)もその一つではないかと思いますが、それに対してなんとか違うアプローチを見つけたいという思いで社会文化歴史的なアプローチ、状況論に親しんできたところがあります。そういうわけで、大元のところがつながっていれば、ホルツマンの議論とも少しつながってるのではと思っています。

 

川俣       みなさんこんにちは。北海道教育大学の川俣です。今日は貴重な場をありがとうございます。今、松嶋さんから事例についての解説がありましたので、私の方でも簡単に共有できればと思います。私が紹介した事例は、私があちこちの学校で経験した似たようなことを組み合わせてこのシンポ用に作ったものです。

 簡単に事例を紹介すると、先生や社会が期待する行動が教室のなかでなかなかできずに、問題があるとされていたAさんに対して、なんとかしなければと先生方が思い、そういう行動をしないように、あるいは別の行動をしようといったようにターゲットを決めて、それを守るようにAさんに働きかけていた、そんな事例です。そして、1日の終わりに本人と一緒にそれができていたかどうか確認してそうした行動の定着を促す、既存の行動改善プログラム等を参考にして実践していました。そうすると、最初のうちはAさんは興味をもったんですけれども、だからといって、できたときもあればできないときもある。Aさん本人はこのことをあまり重要に思っていないというか、どう思ってるのか分からないという、曖昧な状況が続いていました。

 そこに、AさんをサポートするチームのなかにB先生が加わります。そのB先生のことをAさんはとても好きになりました。Aさんは行動改善しようとはたぶん思ってなかったと思うんですが、B先生に褒められたいと、「頑張ってるね」と言われたいと思って、一生懸命行動改善をするようになりました。そうすると、それをきっかけにして、他のクラスメイトとか担任の先生とかかかわっている先生も、AさんはB先生のことが好きなんだねということが分かる。B先生が来そうだというときに、急に自分の行動を律しようとする。そういうAさんに対する周囲のイメージが変わり、面白いやつだなあと印象が変わっていったわけです。

 そうすると、今までは、クラスメイトとのトラブルが多かったりとか、休み時間も遊びに入れてもらえなかったりしてたのが、だんだん、遊びに入っていけるようになったり、トラブルが減ったり、あるいはトラブルになったときでもそれが大きくならなかったりといったようになりました。行動改善プログラム自体がちゃんと達成されているかどうかは、結局のところは曖昧で、できたりできなかったりのままでした。しかし、先生方とか周りの子どもの反応がなんとなく変わることで、たとえば休み時間にAさんが周囲の子どもたちとカードゲームができるようになる、といったポジティブな変化が見られました。。それを見て先生も「あんなふうに遊べるようになった」と評価するわけです。こうした行動は、当初の行動改善のターゲットはそれではなかったけれど、あえて言えば、クラスへのAさんの「適応」のようなことが進んでいきました。これが紹介した事例の概要です。

 これからいろいろディスカッションできればと思いますが、一つ大事なのは、その行動改善の実践に意味がなかったかとかあったかとか、そういうことも重要でしょうが、伊藤さんがさっきおっしゃっていたように、道具と結果方法論では、どっちが前提にあるとか、どっちが先にあるとは考えないので、行動改善の実践のみではなく、AさんとAさんを取りまく先生や子どもたち、コミュニティの相互作用として考えていくことが重要だと思います。

 それから、ありふれた言い方ですが、問題が本当に誰にあって、その意味づけがどう変わっていったのかということも重要な観点だと思っています。また、「適応」とさっき言いまして、質問も来てたんですが、本当に「適応的なこと」とは何だったのか。たとえば、教室を出て行かないといったようなことが最初の時点での行動改善プログラムのターゲットになっていました。最初の時点では、トランプができるようになることがターゲットにはなっていなかったのです。でも、後になると先生が「ほらあんなによくなったんですよ」と、みんなと遊べたりしてることが評価の対象になる。すると、「適応」をどう考えるかというのも、たぶん重要なポイントになるのではと思いながら事例を作ってみました。

 あとは、みなさんとディスカッションしながら、いろいろ新しい発見ができればと思います。

 

 

伊藤       松嶋さん、川俣さん、ありがとうございました。いずれも、学校という社会のなかに適応が難しいお子さんが事例として紹介されていたかと思います。不適応という言葉で片づけられがちですが、ここでいくつか問題を提起してみます。

 一つは、誰が困っているんだろうかという問題。困っているのは、もしかすると教師の方かもしれないし、周りの大人なのかもしれない。そう考えてみると、不適応という状態をどのように考えたらいいのかと、問い返しが必要になってくるだろうと思います。

 『革命のヴィゴツキー』を訳していて非常に気になった言葉があるんですね。ニューマンとホルツマンは、社会形成(socialization)と社会適応(societization)の弁証法という考え方を提案しています。どちらも社会化と訳しがちですが、前者は社会を形成すること、つまり人々のつながりを作るということです。一方後者は、つながりを維持することを指します。つながりができなければ、つながりを維持することもできないし、つながりが維持されてなければ、つながりができるということもないので、要はお互いがお互いを支え合う関係にあります。この社会形成と社会適応の弁証法という観点から見ると、不適応と言われる事態は、どのように見えてくるだろうと思いました。

 二つめが、松嶋さんの発表のなかで「挑戦できる場づくり」という言葉がありました。学校が挑戦できる場として機能するようにしていった方がいいのではというご提案ですね。「挑戦できる場づくり」とは、『革命のヴィゴツキー』の中の言葉で言えば、パフォーマンスができるように、つまり自分自身でありながら、自分自身ではないものとして動くことのできる場として、学校が機能するとよいのではないかと、読み替えることができるように思います。『革命のヴィゴツキー』には、ZPDファクトリーとしてのコミュニティ形成という言葉が出てきます。ZPDファクトリーとは、ZPDの実験場という意味だと思います。つまり先ほど言ったように、何かでありながら何かでない者として、パフォーマンスし、動き、演じ振る舞うことができる場。

 たとえば、松島さんの発表の中のアキくんにしても、川俣さんの発表の中のAさんにしても、教室を飛び出して廊下に行く。しかし、廊下にいる人を呼ぶ呼び方はないですよね。教室のなかにいれば、生徒や児童と呼ばれるわけですが、廊下にいる人を、「廊下者」といったように指し示す言葉がない。つまり、社会的な役割として存在のあり方を指し示す、社会に流通した言葉がない。Aさんにせよアキくんにせよ、そういう存在になっていたのではないかと思います。そういう、曖昧な存在になることが、Aさんやアキくんの状態であったと考えるならば、むしろそれは不適応と考えるのではなくて、何かでありつつ何かでないというそういう存在になっていったと理解することもできるではと思いました。

 今の学校の状況を考えてみると、このCOVID-19、新型コロナウイルスが出てきて以降、学校に行けないということで、学校の先生方は非常にご苦労されて、さまざまな学びの場を提供されて来られたと思います。私は、この動きがもしかすると学校を変える流れになるのではと注目していたんです。実際に休校が明けたらどうなったかというと、話を聞く限りにおいては、むしろかつての学校を取り戻す方向に動いている。変化そのものである歴史と、変化にあらがう社会という対立で言うならば、社会の強い力が学校に働いていると強く思います。「挑戦できる場」に学校を変えていくことは、この3ヶ月の休校があったからこそ、10年遅れてしまうのではと思いました。

 

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著者略歴

  1. 川俣 智路

    北海道教育大学大学院教育学研究科准教授。修士(教育学)。専門は臨床心理学、教育心理学。学校における思春期の子どもたちの「適応」や「学びやすい」学習環境に関心がある。近著にEducating Adolescents Around the Globe: Becoming Who You Are in a World Full of Expectations (Cultural Psychology of Education Book 11)(共著、Springer、2020 年)、「学校における支援の視点」(分担執筆『そだちの科学』34、日本評論社、2020 年)、訳書に『革命のヴィゴツキー――もうひとつの「発達の最近接領域」理論』(共訳,新曜社,2020年)などがある。

  2. 松嶋 秀明

    滋賀県立大学人間文化学部人間関係学科教授。専門は臨床心理学。いわゆる「状況論」や「ナラティブアプローチ」を足がかりに,逸脱した子どもの立ち直りについて考えている。著書に『少年の「問題」/「問題」の少年:逸脱する少年が幸せになるということ』(新曜社、2019年)など。

  3. 伊藤 崇

    北海道大学大学院教育学研究院准教授。博士(心理学)。専門は言語発達論、発達心理学。文化歴史的アプローチに立ち、子どもの言語発達を考えている。著書に『大人につきあう子どもたち――子育てへの文化歴史的アプローチ』(共立出版、2020年)、『学びのエクササイズ 子どもの発達とことば』(ひつじ書房、2018年)、『ワードマップ 状況と活動の心理学――コンセプト・方法・実践』(共編著、新曜社、2012年)、訳書に『革命のヴィゴツキー――もうひとつの「発達の最近接領域」理論』(共訳、新曜社、2020年)がある。

  4. 岸 磨貴子

    明治大学国際日本学部 准教授。専門は教育工学。研究テーマは「多様性をつなげる教育、多様性がつながる学習環境デザイン」。中東(シリア、パレスチナ、トルコ)を中心に、難民など社会的脆弱な立場におかれる子どもの学習発達支援がライフワーク。難民に「なってしまった」ことで、母国でやっていたようにできなくなって、自信を失ったり、どうせ自分は……と未来への可能性を狭めてしまうことがある。この問題に対して、「ない」ではなく「ある」ことに目をむけ、難民たちが自分たちで活動をはじめていける「場のデザイン」としてパフォーマンス心理学を実践。共訳書に『パフォーマンス心理学――共生と発達のアート』(https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455390.html)、本書の姉妹本にあたる『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る――知識偏重社会への警鐘』(ロイス・ホルツマン,著/岸磨貴子・石田喜美・茂呂雄二,編訳/ナカニシヤ出版 http://www.nakanishiya.co.jp/book/b541244.html)がある。今回は、グラフィックレコーダーとして参加。

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