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夏目漱石はどんな授業をしたのか?――受講ノートを探す旅

第6回 金之助 対 漱石――理論と創作のデッドヒート(前編)

 受講ボイコットまで受けていた夏目先生は、シェイクスピア講義で一躍人気者に。同時進行していた「文学とは何か?」という根本的な問いに取り組む「文学論」講義にも勢いがついてくる。だが、すべての文学を説明し尽くそうとする文学理論家夏目金之助の前に、やがて強力なライバルが出現するだろう。それは、すさまじい速筆で次々と話題作を生み出し、やがて夏目金之助を大学から立ち去らせてしまう小説家――もちろん夏目漱石である。二人がライバルであるとはどういうことだろうか。そして二人の理論と創作が演じるデッドヒートとは何のことだろうか。

 今回は文学理論家夏目金之助と小説家夏目漱石の対決の伏線となる、シェイクスピア講義と「文学論」講義の交点に注目してみよう。

 

図1 漱石旧蔵書『マクベス』にはさまれていたメモのオモテ

(東北大学附属図書館漱石文庫蔵)

 

図2 漱石旧蔵書『マクベス』にはさまれていたメモのウラ

(東北大学附属図書館漱石文庫蔵)

 

失われたシェイクスピア講義

 東北大学附属図書館漱石文庫が2019年のクラウドファンディングを経て高精細デジタル画像化した漱石自筆資料を眺めてみよう(こうした画像は、ウェブサイト「東北大学デジタルコレクション」から誰でも無料閲覧できる)。

 図1、図2は漱石所蔵の『マクベス』に挟み込まれていた自筆のメモだ。1903年に書かれたものと仮定すると、戦火から逃れて117年以上の歳月を生き延びてきた資料である。オモテには1)と2)、ウラには3)と英文が箇条書きにしてある。これらは、『マクベス』購読講義およびそこから派生した論文「マクベスの幽霊に就て」(『帝国文学』1904・1)の核となる三つの問いである(詳しくは連載第4回で述べた)。とりわけ3)の4行目後半からに注目してみよう。そこには、「この文明の時代にあってもなお、まったくもって幽霊(apparitions)は文学中にあってよいものだ。それはなぜか?(わが「文学論」講義を参照せよ)」とある(『定本 漱石全集』第27巻、岩波書店2020 :336-338、拙訳)。『マクベス』講読講義は、同時進行する「文学論」講義とつながっていたのだ。

 とはいえ、同じ一人の教師なのだから当たり前だろうと思われるかもしれない。しかし、漱石のシェイクスピア講義と「文学論」講義との関係については、ほとんど注目されてこなかった。いずれも刊行物である「マクベスの幽霊に就て」と『文学論』を関係づけた試み(野谷1974)などはあったものの、両者の講義段階についてはわからないことだらけだったのだから、いたしかたない。

 関係しつつ並行していた二つの講義。一方は『文学論』(大倉書店1907)という難解な著作として刊行され、もう一方は、ほぼすべて失われてしまった。たった一例、野上豊一郎と小宮豊隆の手によって『オセロー』購読の復元が試みられたのがその例外である(『定本 漱石全集』第13巻、岩波書店2018 :298-568)。それさえも、受講ノートに比べれば走り書きに過ぎず、講義のライブ感を追体験させてくれるものではない。

 シェイクスピア講義の資料が残らなかった理由には、購読講義であるという事情が関係しているだろう。東北大学附属図書館「漱石文庫」に保存されている漱石旧蔵のシェイクスピア作品には、欄外に注釈がおびただしく記されている。語義や歴史的背景から、批評家による解釈のメモやそれを批判する自説まで、なんでも書きこんである。漱石はまさしく「ペンを持たねば本を読めぬ眷属(けんぞく)の一人」(山本2020: 50-65)なのだ。

 漱石はシェイクスピア講義の日には、書き込みだらけの書籍にメモ紙片を挟み込み、風呂敷に包んで教壇に持って行ったようだ。一方学生たちは、同じ書籍を注文して持参し、これまた欄外に、漱石の講釈をメモしていく。当然、講述を罫線つきノートにかきとっていく「文学論」講義とは異なり、狭い余白に記すメモは省略的になる。手元の書籍とメモをもとに、漱石が満員大入りの大教室で生き生きと語った言葉は、断片的なメモの形でしか触れることができない(なお、漱石のシェイクスピア講義風景を描いた布施知足の記事は、連載第2回で引用してある)。

 

文学者は催眠術師か?

 次に、「文学論」講義の受講ノートなかから、シェイクスピア講義と連動する箇所を拾い上げていこう。

 漱石は「文学論」講義のなかで、科学による啓蒙を経た現代に至ってなお、文学者(とくにロマン主義作家)が幽霊などの超自然的なものを扱うのは、幽霊が実在するなどという「妄説」を信じさせるためでは当然ないし、話題の展開に必要だからでもないと述べる。金子健二の受講ノートで「超自然F」の文学的効果を述べた所には次のようにある(『文学論』第一編第三章に相当)。

 

    苟〔いやしく〕も世が進歩したる今日に於〔おい〕てromantic schoolの人々が好んで此〔この〕種のsupernatural elementを用ふるは(略)曰くstrong emotionを読者に起さしめんが為のみ。一時の感興に由〔よっ〕て読者の注意を引かんとする為のみ〔森ノート、p.99では「読者をhypnotiseせんとするに外〔ほか〕ならず」〕。之を読者の方面より見るに之〔これ〕はごまかしの手段なりと。信じつゝ而〔しか〕も其〔その〕temptationに誘はるゝを常とす〔森ノートでは「看破し乍〔なが〕ら遂に之に釣込まれ好んで馬鹿にされ面白かりしと云ふ」〕。猶〔な〕ほ大酒家が酒を呑んで其害あるを知りつゝ面前に盃の備へらるゝに及んで知らず々々々飲酒するが如し。(金子ノート、p.339)

 

 つまり、超自然的なものを用いるのは強烈な情緒を読者の心に生じさせて、読者を作者の術中に釣り込むたくらみの手段なのだ。読者はそのたくらみを見抜いていながら、いやおうなく、というよりも自ら好んで馬鹿にされるように、しかも馬鹿にされて感謝するように、喜んで劇に没入する。漱石は観劇や読書をそのようにとらえる。

 ここでさりげなく使われている比喩に注目しよう。漱石は一方的に作用を及ぼす「魔術」ではなくて、「催眠術」を比喩に用いている。もちろん、占い嫌いの漱石は、催眠術のことも信じていなかった。図3のとおり、漱石が学生時代に抜粋して翻訳した「催眠術」(Ernest Hart著、『哲学会雑誌』第6冊第63号、1892・5)の原題はまさしく「催眠術とぺてん師」であった(詳しくは佐々木2009: 183-201を参照)。漱石が用いた「催眠術」の比喩とは、たくらみを見抜いている受け手の協力によって成立する、いわば「共犯関係」からなる相互作用のことなのだ。読者はたんなる受動的な存在ではない――この発想の転換は、やがて漱石の文学理論の核心をなすものとなる。

 

図 3 Ernest Hart, HYPNOTISM AND HUMBUG, THE NINETEENTH CENTURY: A MONTHLY REVIEW, 31(179), London: Sampson Low, Marston and Company, 1892, 24-37.

 

なぜ人はバスチアン・バルタザール・ブックスになれるのか

 ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』Die unendliche Geschichte(1979)において、主人公バスチアンは一冊の本を夢中になって読みふけるうちに、その物語の世界に入り込んでしまう。そこまで極端ではないにせよ、小説を愛する人間ならば、物語の世界に立ち会っている錯覚を覚えたり、登場人物を実在の人物と同じくらい大切に思ったりすることがあるだろう。ではなぜ人は、読書にふけると作り物の世界を生き生きと感じることができるのだろうか。

 幽霊の例で考えてみよう。幽霊を信じていない読者が、物語のなかでは幽霊の存在を許し、しらけてしまうことなく、不気味に思ったり怖がったりできるのはなぜなのだろうか。

 こうした現象はしばしば、サミュエル・テイラー・コールリッジが『文学的自叙伝』Biographia Literaria(1817)の第14章で用いた「不信の念の自発的な一時停止」あるいは「自発的な不信の宙づり」(willing suspension of disbelief)という表現で論じられてきた。引用してみよう。

 

 『抒情民謡集』の計画はこのような考えから始まったのでした。そこで合意したことは、私が主に取り組むのは超自然的な、あるいは少なくとも伝奇物語的な登場人物にするということ。ただしそれは、私たちの内面から人間的な興味や真実らしさの感覚を十分に引き出し、想像力が生み出すこのような影像に対して不信の念の自発的な一時停止を可能にするものでなければなりません。これこそが詩的信仰の特質を成すものです。一方ワーズワス氏が課題としたことは、日常的な物事に目新しさという魅力を与え、精神の注意を習慣的な嗜眠(しみん)状態から目覚めさせ、それを私たちの眼前にある世界の美しさと驚異へ向けることによって、超自然に触れたような感情を呼び起こすことでした。眼前にある世界は尽きることのない宝庫ですが、慣れという被膜と利己的な懸念のために、私たちは目があっても見ることをせず、聞く耳を持たず、感じたり理解したりする心も持たずにいるのです。

 この観点から私は「老水夫の詩(うた)」を書いたのでした。

 (コールリッジ2013: 264)

 

 つまり、「人間的な興味」や「真実らしさの感覚」を読者の心のなかから引き出すと、「幽霊なんかいるはずない」という不信の念を、読者は進んで一時停止するというのだ。むろん、これだけでは十分な説明になっていない。しかし読書の愉悦の核心部分を言い表そうと試みた、先駆的な例だといえる。

 「漱石文庫」に残る旧蔵書を調査した結果、漱石がこの「不信の念の自発的な一時停止」をめぐる記述を読んだうえで、強調するラインを引いていたことを突き止めた(服部2019: 222-224)。漱石が読んだ英語圏の他の文学研究書のなかにも、「不信の念の自発的な一時停止」に言及するものは複数ある。漱石がコールリッジの発想に「我が意を得たり」と思ったことは想像に難くない。

 だとすれば、漱石はコールリッジに明示的に言及を行う形ではなく、自分なりに「催眠術」の比喩を用いる形で、同じ現象を記述しようと試みたということになる。

 ところで、コールリッジは『文学的自叙伝』の第23章で次のように述べている。

 

 シェイクスピアの男性登場人物(略)は皆、シェイクスピア自身の巨大な知性の性質を帯びています。そしてこれは特にリチャード、イアーゴー、エドマンドなどの明らかな魅力になっています。しかしさらに言えば、すべての知的能力の中でも、目に見えない世界への恐怖を超越する能力が最も幻惑的なのです。その影響は次のような状況によって十分に立証されています。すなわち、それは私たちを抱き込んで、私たちのより優れた知識を自発的に従わせることができ、常々の経験から得られる判断のすべてを一時停止させ、亡霊、魔法使い、魔神また秘密の魔除けなどについてのこの上なく奇抜な物語を、興味津々と読み耽るようにさせることができるのです。もし作品全体の調和がとれているなら、それを書いた真の詩人は、私たちの本性に深く根ざしたこのような傾向を基にして、独特の劇的蓋然性を築き上げるでしょう。それは、構成する人物や出来事がほとんどあり得ないものであるときでさえ、劇の楽しさを十分与えてくれる劇的蓋然性です。詩人は私たちに、目を覚まして信じなさいなどとは要求しません。ただ夢に浸ることだけを懇願します。それも目を開いたまま、判断力をカーテンの背後に潜ませて、自分の意志が動き始めたらすぐに目覚めるような状態で夢を見させようとするのです。ただその間だけ、不信の念を抱かないように求めるのです。心がこのような状態であれば、父親の亡霊が現れたときのドン・ジョン〔『空騒ぎ』〕の冷静な大胆さに、感心しない者がいるでしょうか。

 (コールリッジ2013: 525)

 

 この箇所を漱石が参照したか否かは未だ調べがついていないが、漱石はこれとよく似た説明を、別のシェイクスピア研究書に力を借りながら「文学論」講義のなかで行なうことになる。

 

「文学論」講義のなかのシェイクスピア

 「文学論」講義に戻ろう。先ほどの受講ノートの続きが面白い。漱石は学生達に、リチャード・グリーン・モールトンのシェイクスピア研究書(Moulton 1903)の論旨を紹介する。同書の初版は1903年5月。「漱石文庫」にある漱石自筆の「蔵書目録43」(配架番号26-16)には、通し番号572番に同書が記載されている。そこには、1903年10月11日に3円50銭で購入したという意味のメモがある。つまり、刊行から半年も経たないうちに取り寄せて、入手して1、2ヶ月のうちに講義で取り上げたのだ。漱石の学問といえばロンドン留学ばかりが注目されがちだが、漱石が帰国後も研究熱心だったことを忘れてはいけない。『文学論』を留学の成果だと思い込むと、帰国後の思索の深まり、生まれては消えていくアイデアのきらめき(『文学論』の生成)をとらえられなくなってしまうのだ。

 さて、シェイクスピア劇における超自然的作用についてのモールトンの説によれば、『ハムレット』の幽霊や『マクベス』の魔女などは主人公の意志全体を支配するものではないという。むしろ「沙翁劇中に於て超自然力の役割は決して作中人物の為に設けたるものにあらずして、全く聴衆に対する一種の用意」、観客に先の展開を予告し(いわば未来を予知させ)、平凡な事実の羅列に生き生きとした関心を持たせるためにある。「超自然の効力は劇の原則を舞台的表示法にて説明するに存す」という(以上の引用は『文学論』より)。

 この説に対し、漱石は一定の妥当性を認めつつも、批判を行なう。予知=予告が大事だとはいえ、すべての劇で超自然による未来予知が行なわれているわけではない。予知=予告のない劇でも、楽しいものは楽しい。よって、予知=予告により関心を引き付けるというモールトンの知的認識に傾いたアプローチでは、すべてを説明しきれない。それに対し漱石は、読者=観客の感情の動きに注目する。

 超自然的な存在が未来を告げる。一見それと無関係にみえた物語が、次々とその予言どおりに展開していく。不吉な予言が現実のものとなり、観客は衝撃と不可思議と恐怖を感じる。その感情こそが、読者のガードをゆるめる。

 

 彼等は未来を知り吾人の運命を知り出没変幻自在なる故到底恐入〔おそれい〕らざる可〔べか〕らず。一言にていはゞ大なるemotionにて之〔これ〕にhypnotiseせらるゝことを甘ぜざる可らざるもの也。ShakespeareのSupernatural agentは吾人をして此〔この〕hypnotismを受けしめんがため用ゐられしものにして吾人をして何故に此hypnotismを受けしむるかといふに純一無雑にtheatreを見せしめんとの巧猾手段なるのみ。〔金子ノートの対応箇所[p.340]では「吾人は実に一種のemotionに由て観劇中至大の快感を生ずるなり」という一文が続く〕

 故にMacbeth, Hamletを見し帰途にて何故に如此〔かくのごとき〕馬鹿なものを真面目に見しやと思ふ也。即ち理性がemotionに馬鹿にされたる也。(森ノート、pp.102-103)

 

 漱石の理屈では「人間以上に勢力あるもの」にぞっとするという感情の圧迫が第一にあり、その感情に巻き込まれるようにして観客は劇にのめり込むということになる。これだけでは原因と結果を入れ替えただけで、そもそもなぜ作り事にぞっとすることができるのかは説明できていない。だが、漱石の思考の深化は見て取れる。

 今回冒頭に掲載した『マクベス』購読講義のメモ紙片は、1903年9月29日に開講する前後の時期に作成されたものであろう。その後漱石はモールトンのシェイクスピア論を講義の過程で注文し、入手したのは1903年10月11日、「文学論」講義で取り上げたのは同年11月か12月(金子健二の日記から推定)。モールトンの理論によって背中を押され、漱石は文学や演劇における物語世界への「没入」を分析するという試みに踏み出していくのである。

 

小説家漱石誕生以後の「文学論」講義

 1905年1月。漱石名義の「吾輩は猫である」、金之助名義の「倫敦塔」、「カーライル博物館」が相次いで発表される。以後、漱石の旺盛な創作活動についてはあらためていうまでもない。この時期については創作ばかりが注目されがちだが、同時進行していた講義がどのあたりにさしかかっていたのかを、おろそかにせずに確認しておくべきだろう。

 1905年2月14日。受講生金子健二の日記には「文学論講義に出席す。悲劇も喜劇も其コントラスト使用の点に於て一致すとの説は聞くべき価値あり。悲劇は喜劇となり得る要素を有し、喜劇は悲劇となり得る傾向を具有すとの謂なり」とある。実は刊行された『文学論』には収録されることのなかったこの幻の講義部分は、受講ノートにのみ残されている。

 それは、シェイクスピアの喜劇と悲劇(それに加えてセルバンテス『ドン・キホーテ』)を取り上げ、その構造の類似性を指摘したうえで、観客=読者の心理的態度の違いを指摘するものだ。たとえば『オセロー』では主人公オセローがイアーゴに欺かれて最愛の妻デズデモーナの不貞を疑い、やがて殺害へと至り、最終的には欺かれていたことを知って自刃する。これはふつう「悲劇」とみなされる。しかし、もし観客がイアーゴの立場に立てば、オセローの振る舞いは「悲劇」ではなく「喜劇」に見える。要するに、悲劇と喜劇は構造的には同じで、それを分けるのは視点の問題、あるいはそれを選び取る観客の感情の問題であるというわけだ(服部2019: 160-165)。そして漱石は明示していないが、この悲劇と喜劇を同型とみなす発想もまた、モールトンの前掲書に由来しているのだろう。モールトンは次のように言う。

 

この観客の立ち位置とは、あらゆる劇分析の基礎的な構成要素である。「悲劇的」とか「喜劇的」といった基本用語を使うとき、その言葉遣いから観客の視点がわかる。というのも、マルヴォーリオの経験を喜劇的と呼ぶとしても、マルヴォーリオ自身にとっては喜劇の逆(the reverse of comic)であろうということだ。アリストテレスが悲劇を憐れみと恐怖の健全な使用による感情の浄化として定義したとき、彼の定義が関心を払っていたのは明らかに、観客の感情である。

(Moulton 1903:9、拙訳)

 

 こうして漱石がシェイクスピアを媒介に思索を深めていったことには、一種の必然性がある。漱石が志した文学の一般理論には、あまり参考になる前例がなかった。よって漱石は、哲学や美学、演劇論、絵画論、心理学、社会学など、学問ジャンルをまたいであちこちからピースを集めてくるほかなかった。そのとき、シェイクスピア研究には十分な蓄積があり、なおかつモールトンには理論化への強い意欲があった。漱石が足場とするにはうってつけだったのだ[1]

 1905年3月某日。ついに漱石は物語作品への没入について、より本格的に論じることを試みる。『文学論』第四編第八章「間隔論」へ結実するその講義では、やはりシェイクスピア作品が取り上げられたのだった。ちなみに、なぜ3月だとわかるかというと、金子健二の3月9日の日記(金子2002: 477)に「文学論」講義で従来と異なる写実主義論を聴いたという記述があり、短い休みを挟んで4月にはじまった3学期から講義テーマが「文学的要素の一たるコグニチーブ・エレメントの各時代各個人に由て異ること」へと移ったという。『文学論』の章立てに照らすと、第四編第七章でロマン主義と写実主義の比較を行ない、第八章「間隔論」をもって第四編を終えると、時代思潮と文学の関わりを説く第五編が始まるのだから、「間隔論」が講義されたのは1905年3月だということになる。

 1905年3月、小説家夏目漱石は「吾輩は猫である」の第三回を仕上げ、大学講師夏目金之助は『ハムレット』購読講義を進めるかたわら、「文学論」講義で「間隔論」を展開していたのだ。ではその「間隔論」とは何か。それが創作とどう関わるのか。

 普遍的な文学理論は、すべての文学作品を説明できなければならない。しかし小説家夏目漱石の表現は、夏目金之助の文学理論ではいまだ説明のつかない領域へと、やがて足を踏み入れていく。次回は「間隔論」が講義から書籍化へ至るなかでどのように変化し、その変化に同時期の創作がどのように関わるのかを解き明かしたい。

 

 

参考文献

Moulton, R. G.(1903), The Moral System of Shakespeare: A Popular Illustration of Fiction as the Experimental Side of Philosophy. New York: Macmillan.

金子三郎編、金子健二著(2002)『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画)

木戸浦豊和(2014)「夏目漱石における〈感情〉の文学論――C・T・ウィンチェスター『文芸批評論』とレオ・トルストイ『芸術とはなにか』を視座として」(『比較文学』57)

コールリッジ, サミュエル・テイラー(2013)『文学的自叙伝―文学者としての我が人生と意見の伝記的素描』(東京コウルリッジ研究会訳、法政大学出版局)

佐々木英昭(2009)『漱石先生の暗示(サジェスチョン)』(名古屋大学出版会)

野谷士(1974)「超自然の文素――『マクベス』の幽霊から寂光院の美女へ――」(野谷士、玉木意志太牢編著『漱石のシェイクスピア 付 漱石の『オセロ』評釈』、朝日出版社)

服部徹也(2019)『はじまりの漱石――『文学論』と初期創作の生成』(新曜社)

山本貴光(2020)『マルジナリアでつかまえて――書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社)

 

[1] のちに漱石は談話「批評家の立場」(『新潮』1905・5・15)の末尾で「モルトンといふ人が沙翁の作をアナライズして科学的にやらうとした(略)余り機械的に流るゝ気味があつた、しかしそれでも幾分か僕の批評家に対する要求を満して居る」と述べた。漱石が「文学論」講義を通して追い求めたものもまた「科学的」な批評の原理であった。なお、イングランド生まれのモールトンは1894年にシカゴ大学の英文学教授に招聘されて渡米、1901年に彼のポストは「文学理論・解釈講座教授」(Professor of Literary Theory and Interpretation)に改称された。

また、アメリカの文芸批評家C・T・ウィンチェスターの『文芸批評論』邦訳書に贈った序文で漱石は、「綜合と抽象」を目指すアメリカの研究動向により親しみを感じたことを回想している(『定本漱石全集』第16巻、岩波書店、2019)、pp.634-636。同書については木戸浦(2014)に詳しい。

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著者略歴

  1. 服部 徹也

    1986年、東京生まれ。2018年3月、慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(文学)。2018年4月より大谷大学任期制助教。専門は日本近代文学、文学理論。2019年9月に新曜社より『はじまりの漱石――『文学論』と初期創作の生成』を刊行。

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