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夏目漱石はどんな授業をしたのか?――受講ノートを探す旅

第2回 漱石アンドロイドがまだ思い出せないこと

 百年、私の墓の傍〔そば〕に坐つて待つてゐて下さい。屹度〔きっと〕逢ひに来ますから――『夢十夜』にそう書いた漱石は没後百年となる2016年12月、アンドロイドになって甦〔よみがえ〕った。二松学舎大学が大阪大学、朝日新聞社の協力のもと、漱石アンドロイドを作成し大学等で講義を行なわせるというプロジェクトだ。科学と文学とが協働したプロジェクトが、漱石没後100年の2016年、生誕150周年の2017年と続いたアニバーサリー・イヤーを盛り上げたのは興味深い。漱石もまたイギリス留学中に化学者池田菊苗との交流を通して、「学問をやるならコスモポリタンのものに限り候(略)僕も何か科学がやり度〔たく〕なつた」(1901年9月12日、寺田寅彦宛書簡)と感慨を漏らし、科学的な文学研究の方法論を探求した人であったからだ。

 しかし、肝心の漱石アンドロイドの授業というのは、『心』や『夢十夜』などの作品の朗読を行うものだった。そんな講義を漱石が行ったことはない。漱石アンドロイドはまだ、漱石本人がどんな授業をしたのか思い出せていないのだ。とはいえ、それも致し方ない部分がある。漱石の講義は今の学生には難しすぎる可能性があるし、そもそも漱石の講義がどんなものだったか、完全な形で「復元」することは不可能に近いのだ。

 当時録画技術がなかったのは当然だし、録音ですら難しかった(漱石の声を蓄音機に吹き込んだ蝋管が保管されているが、傷んでしまって再生できない)。授業を一字一句速記のように記録していく学生がいたら別として、そんな学生はいなかった。それはなぜか。そして完全な復元が不可能であるとしても、現在残されている資料からどの程度まで講義の実態に近づいていけるのか。これが今回迫りたい謎である。

 

小泉八雲講義の受講ノートはみな似ている

 漱石の講義について述べる前に、前任者小泉八雲の講義と受講ノートについて簡単に確認しておこう。

 小泉八雲が東京帝国大学で行なった講義については、詳しい調査がすでに行なわれている(染村絢子2017)。テキストを使用した詩の講読が週5時間、英文学史が週3時間、さまざまなテーマを設定した特殊講義が週に4時間。当時の受講生達の回想を読んでいくと、講義風景が浮かびあがってくる。八雲は教室に作家の生没年を記した小さな「メモ」を持参して、ゆったりとした英語で講義を行なったらしい。固有名詞や難解な語句など最小限のことを黒板に書く以外は、八雲はひたすら口述し、学生たちは必死にそれを書き取っていく。詩を引用するときに「一字引っ込める」とか「行を改めて」とかいった指示まで与えた。当然英語を英語で書き取るので、綴りがわからないところも出てくる。授業が終わると学生達は、書き落とした部分を見せ合ったり、図書館で調べたりしたようだ。そんな雰囲気を知るには、漱石の『三四郎』から、こんな一節を思い浮かべてもいいだろう。

 

 号鐘〔ベル〕が鳴つて、講師は教室から出て行つた。三四郎は印気〔いんき〕の着いた洋筆〔ペン〕を振つて、帳面〔ノート〕を伏せ様〔よう〕とした。すると隣りにゐた与次郎が声を掛けた。

 「おい一寸〔ちょっと〕借せ。書き落した所がある」

 与次郎は三四郎の帳面〔ノート〕を引き寄せて上から覗き込んだ。Stray Sheep〔ストレイ シープ〕といふ字が無暗にかいてある。

(『三四郎』6の1[第56回]、『東京朝日新聞』1908・10・27)

 

 八雲が一字一句書き取らせようとしたため、忠実な学生達の受講ノートはどれもほとんど同じに仕上がった。このような次第だから、八雲没後に複数の受講ノートを照らし合わせて活字化した英文の講義録は、八雲が教室で口にした言葉を正確に伝えるものだと考えてよいことになる。この講義録は日本語訳されて長らく親しまれ、今日ではその一部を文庫本で手に入れることさえできる(『小泉八雲東大講義録――日本文学の未来のために』角川ソフィア文庫、2019)。

 

漱石講義の受講ノートはみな異なっている

 一方、漱石の講義の受講ノートは、これとは全く事情が異なる。ノートは日本語で書かれていて、しかも同じ日の同じ箇所を取り上げてみると、学生によって表現が異なっているのだ。連載第一回でも取り上げた『文学論』第一文「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す」に対応する部分、つまり「内容論」講義冒頭を比べてみると、こんな具合だ。

 

(F+f)……文学の内容(材料)は此形にreduceさるゝを得(金子健二の受講ノート)

 

凡て文学のcontentsを(F+f)式にreduceし得る也(森巻吉〔けんきち〕の受講ノート)

 

art and literature contents はin most cases (F+f)なるを要す(中川芳太郎〔よしたろう〕の受講ノート)

 

 漱石講義の受講ノートはみな異なっている。このことに気づいたとき、私は愕然とした。ここで少し、私の研究の旅路について振り返っておこう。私が『文学論』を研究対象として真剣に取り上げようと決めたのは、大学院の博士課程2年目、2014年の夏だった。『文学論(下)』(岩波文庫、2007)の巻末解説で亀井俊介は、金子三郎編『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)として公刊されている金子健二の受講ノートのほかに、森巻吉の受講ノートが未公刊のまま東京大学の駒場博物館に収蔵されていることを記している。しかし、受講ノートについてそれ以上詳しい説明はなかった。そこで私は『文学論』のある箇所を詳しく分析するために、当該箇所だけでも受講ノートを比較してみようと思い立った。金子が初代学長を務めた昭和女子大学の図書館で、美しい装丁の『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』を開いたときの喜び、そして『文学論』と受講ノートとの相違、つまり受講ノートにのみ記録された論述、また『文学論』にのみ記された論述がそれぞれ存在することに気づいたときの戸惑いと昂揚はいまも忘れることができない。もちろん、これだけでは研究にならなかった。学生がノートを書き取り損ねただけだった、という可能性がある。もしかしたら学生が自分なりの理解や意見を書き足しているかもしれない。ようやく慎重さを取り戻した私は、他の受講ノートを集める必要、そして受講ノートどうしを比較しながら講義風景を具体的に想像してみる必要があることがわかってきた。とはいえ、そこからが大変だったのだが……。

 閑話休題。なぜ同じ講義を書き取ったのに、全く異なる文言になっているのだろうか。まずは漱石の講義風景を思い浮かべてみよう。たとえば、布施知足という学生が1903年10月の『マクベス』講読講義の風景をスケッチした文章が非常に参考になる。

 

 此の中でsilver skinだとかgolden bloodだといふのは拙いmetaphorですね、こんな事を言つて印象を強くする処が、却つて感興を壊してしまふ、metaphorを使ふのならもつと適切なものを選んで用ゐなければ啻に労して効なし処ぢやありません、寧ろ害がある位のもので、例へば月並流の俳句といふと大抵そんな面白くもない隠喩を並べて得々としてゐる。私共が月並風の俳句を斥けるのも一つはこの処もあるのです。

布施知足「漱石先生の沙翁講義振り」(『定本漱石全集』別巻、岩波書店、2018)

 

 漱石の講義は、日本語で、このような話し言葉で行なわれていた。必要に応じて、英単語を用いることもあったようだ(ここでは「隠喩」ではなく「metaphor」と言っている)。それを学生は漢文読み下しのような「書き言葉」に変換して書きとっていった。これは、現代の私たちが学校でノートをとる時に、教員の話し言葉をそのまま速記するのではなく、黒板や教科書に記された「書き言葉」に準ずる文体で教員の解説を書き記しているのとよく似ている。ただ、漢文風の文体こそが学問らしい文体だ、という当時の常識が今と違うだけだ。ちなみに講義中の「余談」を言文一致体で書き記した例もある(次回紹介しよう)。

 それをふまえて先に引用した三通りのノートを比べ読みしてみると、contentsという英単語を漱石が用いたことは確実であろう。それを日本語訳して書き取った学生もいれば、そのまま書き取った学生もいるというわけだ。この三つを比べてみるだけでも、漱石が実際に口にした言葉を復元するのは不可能に近いことがわかる。さらに残念なことに、漱石は講義用に読み上げ原稿を作成していたと考えられるのだが、これも散逸してしまった。

 

漱石講義の受講ノートたち

 順番が前後したが、漱石の受講ノートがどれだけ残っているのか、その一覧をお目にかけよう。漱石の教え子たちはエリート中のエリートだったため、卒業後は教育者・研究者として第一高等学校など日本各地のナンバー・スクール*[1]に赴任するなど、地方の名士となっていった。そのため、彼らの遺品はしかるべき機関に寄贈され、大切に保管されている。一高の名物校長だった森巻吉の受講ノートは、東大の駒場博物館に保管されている。私は2014年11月、2015年9月の二度にわたり、集中的な閲覧、撮影をさせて頂いた。二度の調査によって受講ノートのなかに新たな資料的価値を「発見」をすることになるのだが、それは後で述べよう。私はその後、横浜、金沢、山口を回って、受講ノートを閲覧・撮影していった。どこの施設でも大変親切にしていただいた。まだまだ各地に眠っている受講ノートはあるかもしれないが、私が把握しているかぎりのノートをもとに、大まかな見取り図を描くとこのようになる(図)。図中の各項目の横幅は講義の範囲を表わしている。「形式論」講義を記録した受講ノートが①~⑤、「内容論」講義を記録した受講ノートが④~⑥、「18世紀文学」講義を記録したのが⑦という次第だ。記録範囲が異なるのは、それを記録した学生の学年が異なるからだ。

 ①~③のノートを記した皆川正禧や岸重次、若月保治らは漱石着任時に三年生(当時は三年で卒業)であったから、「形式論」講義を受けて卒業した。④のノートを記した森巻吉は漱石着任時に二年生であったから、「形式論」講義に加え「内容論」講義の一年目を受けて卒業した。⑤のノートを記した金子健二は漱石着任時に一年生だったため、「形式論」講義から「内容論」講義の終わりまで、つまり「文学論」講義全体を受講することができた。金子より一学年下の中川芳太郎は「内容論」講義二年ぶんと、「18世紀文学」講義の一年目を受講していたが、⑥のノートは部分的にしか残っていない。そして⑦のノートを記した木下利玄は1906年9月に入学のため、「18世紀文学」の二年目から受講を始め、半年ほどで漱石が退職してしまう。白樺派同人の木下は、漱石の講義についての感想や志賀直哉との交流を記した日記を残している。このことは連載の後の回で触れたい。

 以上が漱石講義の受講ノートたちの一覧だ。記録範囲のうえで、金子健二の受講ノートが非常に重要であることは一目瞭然である。金子健二は非常に詳しい日記をつけており、受講ノートとともに活字化されている(金子三郎1998、2002)。

 ほかの学生の受講ノートは、字が綺麗な④森巻吉のノートから、発見者が匙〔さじ〕を投げるほど読みづらい②岸重次のノート(梶井重明2000)までさまざまだ。刊行された『文学論』などを参考に、とにかく「解読」していくしかない。手書きの文字を活字に起こしていく作業を「翻刻」〔ほんこく〕というが、撮影してまわったノートをとにかく翻刻し続けるのが、受講ノートをめぐる旅の次の局面だった。博士課程2年目から博士論文を提出し、書籍化のための再調査を行なうまでの約5年間(2014年夏~2018年夏)にわたり、断続的にこうした地道な作業を続けていると、時々、はっとするような「発見」をすることがあった。

 

漱石が帝大講義の初日に発言した内容を新発見

 まず私が最も驚かされたことは、森巻吉の受講ノートの冒頭に、これまで全く知られていなかった漱石の「文学論」講義の「序論」が記録されていたことだ。つまり、ロンドン留学から帰国したばかりの夏目金之助が初めて大学の教壇に立って、学生を前にこれからはじまる講義について何を話したのかがそこに記されていた。そんな重要な部分が、『英文学形式論』には収録されていなかったのだ。自分のささやかな発見が山内久明氏の達意の翻訳とともに『定本 漱石全集』(26、岩波書店、2019)に収録されたのは感無量だった。この「序論」については、私の『はじまりの漱石――『文学論』と初期創作の生成』にも収録し、第二章と第三章で詳しく解説した。

 「序論」の内容は外国文学研究者としての心構えを、非ネイティヴ読者であることに立脚して説くものだ。なぜ他国の文学を学ぶのか。それは、盲従的=奴隷的な模倣(servile imitation)のためではなく、独自の見解を打ち立て、自らの独創性を育てていくためだと漱石は説く。こうした態度表明は、漱石のモットーとして知られる「自己本位」(「私の個人主義」)の原点といえるだろう。たとえば、教壇に立つ自身の立場を、日本の英文学者の「良き」(good)代表者ではなく、「平均的な」(fair)代表者、「我が国の発展という変化の波に共にもがく者のひとりとして」(as a fellow-struggler in the transition waves of our national progress)英文科学生の前に立っているのだという。自分は天才として特権を振りかざすつもりはないし、みんなで英国人になろうというのでもない、と。

 こうした「序論」での発言は、実はそのまま創作のなかへ取り込まれていく。たとえば『野分』(『ホトトギス』1907・1)における白井道也の演説には、次のような一節がある。

 

「英国風を鼓吹して憚からぬものがある。気の毒な事である。己れに理想のないのを明かに暴露して居る。日本の青年は滔々として堕落するにも拘はらず、未だ此所迄は堕落せんと思ふ。凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りやうがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度に於ては奴隷である。奴隷を以て甘んずるのみならず、争つて奴隷たらんとするものに何等の理想が脳裏に醗酵し得る道理があらう」

「諸君。理想は諸君の内部から湧き出なければならぬ。諸君の学問見識が諸君の血となり肉となり遂に諸君の魂となつた時に諸君の理想は出来上るのである。付焼刃は何にもならない」

 

 さらに同じ趣旨は、『三四郎』のとある学生による演説のなかにまで見られる。

 

 吾等〔われら〕新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会〔さいかい〕したと信ずる。(略)我々は西洋の文芸を研究する者である。然〔しか〕し研究は何処迄〔どこまで〕も研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸に囚〔とら〕はれんが為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱〔げだつ〕せしめんが為に、これを研究してゐるのである。此〔この〕方便に合〔がっ〕せざる文芸は如何〔いか〕なる威圧の下に強ひらるゝとも学ぶ事を敢〔あえ〕てせざるの自信と決心とを有して居る。

 

 ロンドン留学から帰国した直後の漱石が「序論」として教壇で述べた「自己本位」の原点ともいうべき立場表明は、形を変えて『野分』や『三四郎』などへ引き継がれ、演説「私の個人主義」へつながっていく。この一連の流れは、受講ノートの調査を通して初めて明らかになった。「私の個人主義」で漱石は自らの学問を「立派に建設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟」と評した。これまでこの言葉の否定的なニュアンスに注目が集まりがちであったが、漱石が選んだ「市街」というイメージの広大さにも注目してみるべきだろう。出版された『文学論』や『文学評論』は、その一部を書き改めたものなのだ。

 次回は、講義を『文学論』という理論書にまとめあげる仮定で、漱石がどんなポイントについて試行錯誤したのか、どんな箇所を削っていったのかなど、受講ノートがあって初めてみえてくる『文学論』のもうひとつの側面をみていきたい。

 

参考文献

 梶井重明(2000)「夏目漱石の東大最初の講義録 岸重次のハーン講義受講ノートの中より発見」(『こだま』6(7)、金沢大学附属図書館)

 金子三郎編(1998)『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(私家版[国会図書館所蔵]、上中下巻)

 金子三郎編(2002)『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画)

 染村絢子(2017)『ラフカディオ・ハーンと六人の日本人』(能登印刷出版部)

 

*[1] 明治期に創設された八校の旧制高等学校を後発の学校と区別してナンバー・スクールと呼ぶ。東京の一高、仙台の二高、京都の三高、金沢の四高、熊本の五高、岡山の六高、鹿児島の七高、名古屋の八高はそれぞれ、のちに新制大学になる。

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著者略歴

  1. 服部 徹也

    1986年、東京生まれ。2018年3月、慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(文学)。2018年4月より大谷大学任期制助教。専門は日本近代文学、文学理論。2019年9月に新曜社より『はじまりの漱石――『文学論』と初期創作の生成』を刊行。

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