第3回 受講ボイコットされる夏目先生を誰が救ったか
連載第1回で簡単に紹介したとおり、夏目漱石の東京帝国大学での講義は逆風のなかで始まった。抗議のため、受講ボイコットや、所属学科の変更を行なった学生までいたほどだ。しかし、ほどなくして漱石の講義は「満員御礼」と言われるまでに、英文学科内外の学生達の支持を集めていく。一体どのように、夏目先生はピンチを切り抜けていったのだろうか。学生側からみた大学の雰囲気を、当時の学生の日記を通して味わってみよう。
図 1 1900年頃の東京帝国大学文科大学が入っていた校舎内観
(図の出典は末尾にまとめて記載)
ヘルン先生の、夏目先生の、三四郎のいたキャンパス
学生にクロースアップする前に、キャンパスの様子を具体的に思い描いていきたい。まずは筆者の『はじまりの漱石』(新曜社、2019)のカバー・表紙の話から始めよう。カバー・表紙に用いた写真(図1)は、ゲーム「文豪とアルケミスト」をプレイしたことがある方には学校ステージの背景として見覚えのある廊下だろう。明治30年代の東京帝国大学を撮影した写真帖『東京帝国大学』に収められた1枚である。「ヘルン先生」こと小泉八雲や、漱石が教えた東京帝国大学文科大学(文学部のこと)の校舎は、法科大学(法学部)と共用だったので、「法文科大学」と呼ばれた。つまりこの写真は、八雲や漱石、三四郎が歩いた廊下だということになる。初めて教壇に立つ日の漱石は、どんな気持ちで廊下を歩いて教室へ向かったのだろうか。そんな瞬間に思いを馳せてみると、ノスタルジックなセピア色はふさわしくないように思われ、色を変えて表紙にしてもらった。ちなみに、本連載バナー画像も同写真帖から採った。写真帖は全ページがウェブ公開されているので、記事末尾のリンクより是非ご覧いただきたい。
ヘルン先生が歩き、漱石が歩き、三四郎が歩いた東京帝国大学は、現在の東京大学本郷キャンパスにあたる。実際に歩いてみると歴史のありそうな校舎が目に付くものの、明治期に建てられた校舎は全て建て替えられている。漱石がいた頃の地図(図2)をもとに当時の様子を想像してみよう。あなたは正門(左端中央)から入って、真っ直ぐ続くメインストリートを歩く。右前方には「法科大学及文科大学」、つまり図1の校舎が見え、さらに右手に図書館がある。『三四郎』第3章冒頭の登校シーンで描かれる景色だ。現在の地図(図3)と比べてみると、正門から入るメインストリートを中心としてシンメトリカルに校舎を配置するというコンセプトは緩やかに継承されているものの、正門から放射状に伸びていた道(図4)はなくなってしまっている。かえって、後からできた安田講堂とそれをとりまく庭園が宮殿っぽさを伝えているかもしれない。
図 2(左)1903年頃の東京帝国大学
図 3(右)現在の東京大学本郷キャンパス
図 4 1900年頃の東京帝国大学、正門からの風景。よく見ると近道ができている……。
漱石たちが居た頃の雰囲気を色濃く残しているのは、『三四郎』に登場することで「三四郎池」の愛称で親しまれるようになった育徳園心字池(図5, 6)と赤門くらいのものだろう。
図 5 1900年頃の育徳園心字池
図 6 現代の育徳園心字池(三四郎池)
たとえば、野々宮のいる理科大学(図2右上)の研究室を後にした三四郎は、坂(図3では「三四郎坂」と名づけられている)を登って左手にみえる森に入っていく。そしてしゃがんで池を眺めていると、美禰子〔みねこ〕と出会う。
三四郎が凝〔じっ〕として池の面〔おもて〕を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映つて、其又〔そのまた〕底に青い空が見える。三四郎は此〔この〕時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且〔か〕つ遥〔はるか〕な心持がした。然〔しか〕ししばらくすると、其心持のうちに薄雲の様な淋〔さみ〕しさが一面に広がつて来た。(略)不図〔ふと〕眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立つてゐる。女のすぐ下が池で、池の向ふ側が高い崖〔がけ〕の木立〔こだち〕で、其後が派手〔はで〕な赤煉瓦〔れんが〕のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡〔すべ〕ての向ふから横に光を透〔とお〕してくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐる低い陰から見ると岡の上は大変明るい。女の一人はまぼしいと見えて、団扇〔うちわ〕を額の所に翳〔かざ〕してゐる。
他にも、小泉八雲が池の周りを歩いていたことを、与次郎がさも見てきたかのように三四郎に話す場面などが『三四郎』に描かれている。
ところで、先にも触れたとおり、正門から伸びるメインストリートと放射状の区画、広々とした庭園など、東京帝国大学の雰囲気はどこか宮殿を思わせる。いったいこの印象はどこから来るのか。建築学者の岸田省吾は、様々な宮殿や大学の図版を比較しながら、キャンパスの形成過程を詳しく論じている。ドイツで18世紀に建てられた皇太子宮殿が、1810年に改装されてベルリン大学(フンボルト大学)となる。以後、多くの大学が宮殿形式を取り入れていく。ケンブリッジ大学やボローニャ大学とほぼ同時期に、東京帝国大学もこうした様式を取り入れた。鹿鳴館を手がけ、辰野金吾らを育てた建築家ジョサイア・コンドル(1852-1920)が構想したマスター・プランが、「開発の最初期の時点では建設計画が可能な空地が限られていたことなど、(略)実際の条件に適合するよう変形を受けつつ実現されていった」のが初期の東京帝国大学であるという(岸田1997 :40)。また、「三四郎池」のある育徳園はそもそも、大坂夏の陣の褒美として加賀藩前田利常の所有地となり、1629年の徳川秀忠・家光の訪問にあわせて整備された回遊式庭園である。これがキャンパス計画においても保存が図られたのは、コンドルの有する日本趣味のためだっただろうともいわれている(中島穣ほか2010)。ちなみに赤門も加賀藩の屋敷の名残である。
小泉八雲留任運動から受講ボイコットへ
のちに自身も英文学者となる金子健二(図7)の日記(金子三郎1998)と、その日記をもとに脚色をまじえた回想録(金子健二1948)とを読み解くと、当時の光景が手に取るようにみえてくる。
図 7 金子健二の卒業時の集合写真。中央がアーサー・ロイド、その左に上田敏、右に漱石。前列右から二番目が金子健二。ちなみに漱石の右は松浦一。松浦は東大英文科講師となり受講生であった芥川のボードレール受容に影響を与えた(小谷瑛輔2017)。
金子は1902年9月に東京帝国大学文科大学英文学科に入学して、小泉八雲の講義を受けることになる。「小泉師の英文学史及評論は随分高尚にして聞くべき価値多けれ共〔ども〕西洋人の筆記は今度初めての事なれば思ふ侭〔まま〕に筆も走らず帰後語学をすてゝ之が訂正にかゝる。実に不経済なり」(1902年9月17日)とか、「本日より一字一句も誤脱せざる様に筆記せんと大決心もて教室に入りしが、又た又た誤脱の不結果を生ぜり。第一学期間はかくして止まんかな。図書館に入る。筆記訂正せんとせしがレッドインクなかりしを以て止む」(1902年11月5日)とかいう具合に、授業中はひたすら書き取り続けて、図書館で書物に当たりながら筆記の訂正を行なうのが学習のサイクルだったようだ。当時の八雲の教え子たちの多くは、この筆記をじつに甘美な思い出として――まるで音楽のような講義であったと振り返っている。金子によれば、八雲は学生達に、教員になるために役立てようと思って講義を受けるのではなく、創作をするために受けろと言い聞かせた。学生達は「皆大いに感激すると共に、各自は既に一かどの創作家にでもなつたやうな自負と法悦とに小さな胸を躍らせた」(金子1948 : 42)という。
しかし、「噂に由〔よ〕れば先生三月限にて職を辞すとの事なり」(1903年1月19日)との噂がかけめぐると、学生達は大学当局を相手取り八雲留任運動を始め、一時は総退学を訴える強硬派もいた(強硬派には、のちに演劇革新運動で知られるようになる小山内薫〔おさないかおる〕、八雲退職後法科に転じ卒業後は実業家・歌人として活躍する川田順がいた)。結局八雲は失意のまま東大を去り、早稲田大学に迎えられて坪内逍遙らと交流をもつが(関田かをる1999)、間もなく亡くなる。
八雲にかわって、1903年4月から夏目金之助、上田敏、アーサー・ロイドの3名が英文学科に配属されると、学生達の不満は、漱石に向かった。上田やロイドにも被害はあったのかもしれないが、漱石についてばかりが語りぐさになっている。あるいは担当授業が上田より多かったため、漱石が狙われたのかもしれない。1903年5月4日には1年生の小山内薫、川田順らが受講拒否、卒業の近づいた3年生は神妙に出席。2年生は厨川辰夫〔くりやがわたつお〕(白村)だけが熱心に聞いており、「他の諸君は出席だけはしてゐるが、心の中ではさう興味を寄せてゐないのだ」と2年生の森巻吉が同郷の後輩金子健二に話したという。この時3年生だった皆川正禧〔まさき〕は、「教室内見渡す所、或〔ある〕者は頬杖をしたまゝに新しい講義者の講義を聞き流さうとした、或者はペンを執〔と〕ることさへなくて居眠りに最初の幾時間を過した」と振り返る(皆川1924)。夏目先生、なんともお気の毒である。
金子の日記も初期はかなり手厳しい。「いやいやながら夏目氏の時間に出席す。没趣味の講義なり。二時間ぶっ続けにやられ欠伸〔あくび〕のみ出づ」(1903年5月11日)とか、講義中に秀才の三年生に誤りを指摘された漱石が、結局うやむやにもみ消して講義を終えたことにふれて「能〔よ〕き気味なりき。夏目氏の散文的なるは余の最も好まざる所なり。俳句などに時々筆を染むと聞きてはあきれざるを得ず」(5月25日)とかいった具合だ。ちなみにロイドの講義は「一文の価値なし」(5月27日)。金子は上田敏の人柄を褒めるが、教養は漱石のほうがあると書く。回想録と違って、遠慮がないから日記は面白い。
新年度になって「内容論」に移行した概論講義は「夏目氏の講義本日はじめて面白かりき」(9月28日)と肯定的評価もみられるようになるが、「何等の聞くべきものなし」(10月29日)、「無価値没趣味の講義」(11月16日)、「コモンセンスにて考へ得らるゝ陳腐の講義なり。只だ採るべき点は其例証の広きにあり」(11月30日)など酷評は続く。
一方、作品講読講義はあらたにシェイクスピアの『マクベス』を取り上げたが、これが大当たりし、英文学科以外の学生も多く聴講に詰めかけた。「出席者廿(にじゅう)番教室に充溢す。前学年に比して一大変化を来〔きた〕せり」(9月29日)、「出席者多し。先生快感胸に溢るゝものあらん」(10月1日)とある。「マクベス講義及文学概論講義に出席す。夏目氏は自らも博学を以て任ぜる如く吾人も亦〔ま〕た其深遠なる読書眼を歎称せざるを得ず。たゞ其欠点を上ぐれば、きざなる所ありて相手の者に厭〔い〕や味を起さしむることなり。なかなか一すじ縄にてはくへぬしろものなり」(10月13日)などという観察も辛辣で面白いが、少しずつ漱石が尊敬を集めていったことが伺える。『マクベス』に続く『リア王』講読では、「出席者の数は以前よりも却〔かえっ〕て増加」(1904年2月23日)し、「大入繁昌札止め景気であつた。文科大学は夏目先生たゞ一人で持つて居らるゝやうに感じた」(金子1948: 90)という。
帝大生が熱中した文学とは
この頃、学生達がどんな日本文学を読んでいたのかを金子の日記から知ることができる。たとえば、1903年5月18日、「午後夏目講師の講義を聴く事二時間、同級生の二三と『読売』連載の『魔風恋風〔まかぜこいかぜ〕』の批評をした。作中の主人公が颯爽たる姿を自転車に運ばせて本郷の大道を風の如く走つて赤門に乗りこんでゆく[1]、その光景が恰(ちょ)うど英文科三年の秀才安藤君そのまゝであると話しあつた。そんなら昨日から『二六』に鏡花が書き出したあの神秘的な主人公は差当りわれわれのクラスの中の誰れに似てゐるかと笑つた」(金子1948 :58)。小杉天外『魔風恋風』、泉鏡花『薬草取』の連載を追い掛けながら、知人をキャスティングして遊んでいるのだ。また金子は敬愛する幸田露伴の連載『天うつ浪〔そらうつなみ〕』にも時々日記で言及するなど、さまざまな新聞雑誌への目配りを怠らず短評を記している。
さて、漱石のシェイクスピア講読が満員御礼になったのは、ちょうど、シェイクスピアへの注目がにわかに高まっていたことと関係があるだろう。たとえば1903年2月11日、洋行帰りの川上音二郎は明治座で『オセロー』を上演する。江見水蔭〔えみすいいん〕の翻案によって、ヴェネチアを駿河台、キプロスを台湾に置き換え、主人公であるムーア人のオセローは陸軍中将台湾総督室鷲朗〔むろわしろう〕とするなどの変更が加えられる一方、西洋式の家具や軍服、プロセニアム・アーチや色電気照明などを取り入れて評判になった(若林雅哉2004)。6月に明治座で『ヴェニスの商人』の法廷の場を土肥春曙訳で上演、11月に本郷座で『ハムレット』(土肥春曙・山岸荷葉による翻案)を上演し、川上一座は一年に三度もシェイクスピアを演じた(水野義一1971)。この『ハムレット』の観劇の様子は、金子の『人間漱石』に詳しい。
ハムレットの亡父が青山墓地に幽霊の姿よろしく現はれて来て、その昔シェークスピアー自身が其の役割りを勤めたといふ亡霊の、あの幽かなものすごい口調で、「怨めしや」「怨めしや」の言葉を吐くあたりは、誠〔まこと〕に感傷的の気分をそゝるに十分なものがあつた。しかし、ハムレツトの母の出来栄えは非常に悪かつた。それから、私の同伴者の一人が余り文芸趣味を持つてゐなかつた為か、可憐な乙女オフェリアが既に狂人となつて全身を花でつゝみながら、ものさびしげな口調で次の如くにうたひながらステージに現はれて来るのを見て、声を出して不謹慎にも笑つたから、私は彼に「笑ふどころの場面ではないぢやないか、泣いて見るべき深刻なシーンだよ」と注意した……(略)恰うど、私達が夏目先生から『マクベス』の講義を聴いてゐる時に、ともかくシエークスピアー劇を川上一座で日本式に上演してくれたのは私達英文科の学生に大きな幸福であつた。
(金子1948 : 74-75)
ちなみに漱石は留学中に、ちょうどロンドンで行なわれていた川上一座の公演へ知人に誘われたことを日記にかいている。「川上の芝居を見んと云ふ。いやだと云つた」(1901年6月22日)。「いやだ」……。なんてストレートなお断りであろうか。しかし少し大袈裟な言い方をすれば、険悪なムードの英文科で窮地に立たされていた夏目先生を救ったのは、川上一座だったのかもしれないのだ。それが言い過ぎだというなら、シェイクスピアのおかげとでもしておくべきだろう。『マクベス』以後、漱石の作品講読はすべてシェイクスピア作品を扱うことになる。
前回予告しておきながら、講義の内容に触れることができなかった。次回、シェイクスピア講読講義と漱石の文学理論がどのように関わるかを中心に、ようやく講義の中身に入っていきたいと思う。
図の出典
図1, 4, 5 東京大学総合図書館画像データベース写真帖『東京帝国大学』明治33年版よりトリミングして引用。
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/shashincho/page/home
図2 『東京帝国大学一覧』(東京帝国大学発行、明治36-37年度版、巻末付録)。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813180
図3 OpenStreetMap https://openstreetmap.jp/#zoom=18&lat=35.7129&lon=139.76069&layers=B0FF
図6 街画ガイド http://komekami.sakura.ne.jp/archives/159/pc132652
図7 『定本 漱石全集』(第14巻、岩波書店、2017)より転載。金子(1948)巻頭に全員の人名記載あり。
参考文献
金子健二『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版:協同出版、1956)
金子三郎編『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)
岸田省吾「東京大学本郷キャンパスの形成と変容に関する研究」(東京大学博士(工学)学位論文・乙第13264号)https://ci.nii.ac.jp/naid/500000161743
小谷瑛輔「芥川龍之介「煙草」と切支丹物の出発――ラフカディオ・ハーン以降の日本のボードレール受容を視座として」(『ヘルン研究』第2号、2017・3)
関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999)
中島穣・中井佑・内藤廣「東京大学本郷キャンパス育徳園の変遷とその要因」(『景観・デザイン研究講演集』No.6、土木学会、2010・11)
皆川正禧編、夏目漱石述『英文学形式論』(岩波書店、1924)
水野義一「川上音二郎とシェイクスピア」(『英学史研究』3、英学史学会、1971・6)
若林雅哉「明治期の翻案劇にみる受容層への適応――萬朝報記事「川上のオセロを観る」を手がかりに」(京都大学大学院文学研究科編『人文知の新たな総合に向けて』第二号(哲学編一)、2004・3)
注
[1] 『魔風恋風』で主人公の女学生萩原初野が自転車に乗って走るのは、日本女子大学校(「大学」という名だが、制度上は女子専門学校。戦後に新制大学としての日本女子大学となる)をモデルとしたとされる「帝国女子学院」である。赤門に乗り込むというのは記憶違いであろう。