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夏目漱石はどんな授業をしたのか?――受講ノートを探す旅

第4回 オバケの権利を擁護する

 漱石が帝大在職中に唯一発表した学術論文は、「マクベスの幽霊に就〔つい〕て」(『帝国文学』1904・1)だった。いったいあの漱石がどうしてオバケについて論じているのだろうか。このことを辿っていくと、漱石の文学理論のアイディアの源に行き当たる。

 漱石の論文は、英語圏のシェイクスピア研究にもとづき、上演史上の論点を取り上げたものだ。一見、他人の説を紹介しただけにもみえるが、実はそうとも言い切れない。「文学論」講義と同時期に行なわれた『マクベス』講読講義に端を発するこの論文からは、漱石が演劇論を参照しながら文学理論を作り出そうとしていた試行錯誤の一端をうかがうことができる。

 

『マクベス』講義とそのテクスト

 連載第3回では、漱石のシェイクスピア講義が人気を集めていったことを紹介した。その第1弾が『マクベス』講義(1903年9月29日-1904年2月16日)だ。とはいえ、やはり英文科学生の目はきびしかった。金子健二は、「夏目氏の『マクベス』、訳は上出来なれども批評的言語を混ずるときは聞く者をして倦〔う〕ましむ。要するに、陳腐なることを六ケ敷相〔むずかしそう〕に述ぶるは其〔その〕大欠点なり」(1903年10月29日)と、相変わらず手厳しい評価を日記に書き留めていた。

 日記を読み進めていくと、「九時昇校し拾時迄夏目講師の講義を聞く。二人の西洋婦人参観に来る。夏目氏の「マクベス中に現はれし幽霊に関する議論評講」は何人〔なんぴと〕も言はんとする所にして、毫〔ごう〕も注意に値すべきものなし。氏の長所決して此〔かか〕る点にあらず」(1903年12月1日)という記述がある。この日に論文の原型が講義されたとすれば、「マクベスの幽霊に就て」の末尾に「十二月十日釈稿」とある以上、ほとんど論文の最終形に近いものが読み上げられたものと推測できる。

 ちなみに、この12月1日は火曜日で、9時から10時まで『マクベス』講義だったことがほかの週の金子日記からわかる。何時から何時まで誰の講義を受けたかをいちいち日記に書いてくれたおかげで、金子健二の時間割を復元することが可能なほどだ(図1)。三年で卒業するうちの二年生であっても語学科目が多く、予習復習に追われてかなり忙しそうだ(日記のなかには、語学教員への愚痴が多い)。また、漱石の講義が英文学科生の生活に占めていたウエイトの重さ――あるいは期待の重さも想像しやすい。なにしろ前回も触れたとおり、金子にとってアーサー・ロイド(Arthur Lloyd)の講義は「一文の価値なし」(5月27日)なのだから……。

図 1 金子健二の時間割の推定 (随)は随意科目を指す

 

 『マクベス』に関する学生たちの受講ノートは残されていない。なぜかは単純で、漱石のシェイクスピア講読講義では、学生たちはそれぞれテクストを購入して持参し、余白に書き込みを入れていったからだ。たとえば野上豊一郎は、『オセロー』講義(1906年1月-10月18日)を受講した際に『オセロー』本文の余白に漱石による解釈・批評を書き込んでおり、これをもとに『夏目漱石先生評釈Othello』(鉄塔書院、1930)を刊行した。漱石もまたあらかじめテクストの余白に書き込みをしたり、メモを挟んでおいたりして、ページをめくりながら授業を行なったのだろう(連載第2回で紹介した布施知足による授業風景スケッチを思い出して頂きたい)。

 漱石が『マクベス』講義に携行したテクストは、受講生布施知足によればK. Deighton(ed.), Shakespeare : Macbeth with an Introduction and Notes, London: Macmillan, 1896だった(以下、「デイトン版」)。旧蔵書にはもう一冊、H. H. Furness(ed.), A New Variorum Edition of Shakespeare vol.2 : Macbeth, Philadelphia: Lippincott,1878がある(以下、「ファーネス版」)。こうした書物をチェックするのもかつては一苦労だったが、現在ではデジタル化資料をウェブで検索・閲覧することができる。試しに閲覧してみたい方のために、以下にリンクを記しておく(「Search inside」という欄にキーワードを入力すれば、テクスト内検索ができる。ただし、OCR読み取りミスがあるので過信は禁物)。

 

デイトン版

 https://archive.org/details/macbethwithanin01deiggoog/page/n6/mode/2up

ファーネス版

 https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.3141/page/n3/mode/2up

 

 漱石はこの二つを組み合わせて授業準備を行なったものと考えられる。漱石は研究・読書の際にとにかくアンダーラインを引いたり、余白に批評を書き込んだりする書き込み魔だった。本の内容にツッコミを入れていく「攻めの読書」は創作のエンジンでもあった(山本貴光2017)。『漱石全集』によれば、デイトン版には多くの書き込みがあり、複数のメモ紙片が挿入されていた。ファーネス版にもデイトン版より少ないものの、書き込みがあるという。

 意外と知られていないかもしれないが、『漱石全集』には漱石の作品や日記・書簡以外にも、旧蔵書への書き込みやメモの翻刻が収録されている。ただし厳密にいうと、全ての本の書き込みが収録されているわけではない。書き込みのなかでも、アンダーラインや内容把握のためのメモなどは収録対象外だ。つまり、実際に書き込まれたページを目にしてみないことには、漱石がその本をどれくらい丹念に読み込んだのか把握しにくい。全集に頼りすぎず、実際に自分の眼で見てみる必要がある。幸いにも、漱石の旧蔵書・自筆資料などを保管する東北大学附属図書館「漱石文庫」には、漱石が用いたデイトン版・ファーネス版『マクベス』や関連文献が現存する。

 そこで私が思い立ったのは、漱石旧蔵書の書き込みや挟み込みメモをもとに、失われた『マクベス』講義の内容を想像しながら、「マクベスの幽霊に就て」の問題設定がどのように生まれてきたのかを辿り、同時期の「文学論」講義との関係を明らかにすることだった。調査の旅がまた始まった。

 

夜行バスで「漱石文庫」へ

 深夜のカフェで時間を潰して酔い止め薬を飲み、新宿から仙台行きの夜行バスに乗る。狭くて硬い四列シートに座って、アイマスクをして六時間。揺れる車内で見る細切れの夢は、奇妙な浮遊感を伴った。到着後すぐに研究に取りかかるためには、サービスエリアでの休憩ごとにストレッチをしておくのがコツだ。熟睡してこれを怠ると、疲労で悲惨なことになる。

 コンビニ御飯で朝食を済ませたら、スーツケースを引きずって仙台城に近い東北大学附属図書館へと続く坂を登る。図書館の入口には「魯迅先生の像」と、彼の恩師「藤野先生の像」が並ぶ。何度もこの像を見たことが、中国人留学生がどのように漱石を読んだかを調べるという後の研究アイディアにつながったような気もする(ちなみに魯迅と周作人兄弟は漱石の愛読者であり、漱石『文学論』の中国語訳[張我軍訳、上海:神州国光社、1931]には周作人が序文を寄せた)。

 ところで、そもそも「漱石文庫」はなぜ東京でなく、東北大学にあるのか。漱石の没後、その旧居の保存は弟子達の間で長年の課題となった。関東大震災を経て、移築の検討なども行なわれたが頓挫。日中戦争以後の時局の激化にともない、せめて旧蔵品だけでも一括して保存を目指すことになる。

 たとえば当時の東京帝国大学の図書館の場合は、かりに著名人の旧蔵書コレクションであっても、従来の分類に沿って配架することになっており、コレクションとして一括保存したい漱石門下生にとって、移転先には適さなかった[1]。一方、小宮豊隆が館長をつとめていた東北大学附属図書館では、狩野亨吉の蔵書を買い取った「狩野文庫」など、すでにコレクション型の蔵書形成を行なっていた。そこで小宮の尽力により、旧蔵書や日記、手帳、原稿などの自筆資料を購入・搬入した。この一連のプロセスのなか、旧居と旧蔵品が分かれてしまうことには他の弟子達の反対もあった(木戸浦豊和2013)。しかし旧居が空襲で焼失したことを考え合わせれば、間一髪のところで旧蔵品が、一括した形で保存されたことだけでもよしとするべきだろう。日本の近代文学者は東京に集中していたために、震災・戦災で焼失した資料は多い。漱石資料が充実しているのは、漱石を敬愛し、資料保全に手を尽くした弟子や図書館やコレクターの営為の積み重ねによる。とりわけ漱石文庫には私自身、お世話になりっぱなしだ。

 さて、私が見に行ったのはマイクロフィルムである。東北大学附属図書館漱石文庫は、1995-97年にかけて仙台市と共同で旧蔵書のマイクロフィルム化を行なった。また2000年にはインターネットでの目録公開、自筆資料約650点の画像公開を行なっている。しかし従来の撮影画質では、マイクロフィルム、デジタル画像いずれも場合も、読み取りが難しい箇所があった。他方、資料の劣化は刻一刻と進む。こうした問題を解決するため、2019年には最新技術によるデジタル化と一般公開を目指す「漱石文庫」デジタルアーカイブプロジェクトが発足。クラウドファンディングで出資を募り、約470万円が集まった。自筆ノート等を中心に、蔵書書き込みについても順次デジタル化を進める予定だという[2]

 東北大学附属図書館に着くと、事前に依頼しておいたマイクロフィルムを受け取って、バックヤードでマイクロフィルム映写機を操る。書籍の見開きのモノクロ写真が何枚も収められているフィルムをずーっとスクロールさせていき、書き込みがないか眼を光らせる。書籍やPDFファイルのページをめくるのと違って、左右にスクロールする画像を見続けると独特の負荷がかかるのか、私はしばしば車酔いのような悪心にみまわれる。休憩する時間が惜しいから、予め酔い止め薬を飲んでおくようになった。持参したコンビニ御飯で昼食をとるほかは、開館から閉館まで、数日間この作業を続ける。安ホテルやバックパッカー向けのドミトリーに泊まっての漱石文庫調査は、毎回こんな具合だった。なにせ、お金がなかった。

 ちなみにこの時、苦労して確認した結果、『マクベス』に関係する新しい発見はなかった。資料調査というのは空振りが普通であって、「調べてみたけどとくに新しいことはなかった」という積み重ねの先に、「あのへんに何かありそうだ」ということも見えてくる……と信じてがんばるのだ。それにしても、酔い止めを飲んでまで写りのわるいマイクロフィルムを眺め続けるのはつらい。「漱石文庫」デジタルアーカイブプロジェクトにはぜひともがんばって頂きたい。

 

科学全盛の時代に、オバケの権利を擁護する

 演劇において、幽霊が出て来る場面をどのように上演したらいいだろうか。ひとまず、誰かがシーツを被って舞台にあがればいいだろう。だれも、シーツをかぶったおじさんが登場したとはみなさない。白い布は幽霊を表現したものだとみなす「お約束」が私たちのあいだで共有されているからだ。もちろん、何をもって幽霊の表現とするかは時代や地域によって異なる。

 こうした「お約束」はさまざまな要因で変化してきたし、今後も変化しうる。古風に感じる「お約束」もあれば、まだ定着していない・見慣れない「お約束」も日々生まれているだろう。フィクションを理解するうえでの「お約束」に注目してみると、漱石のシェイクスピア講義と「文学論」講義とがつながってみえてくるだろう。まずは「マクベスの幽霊に就て」という論文の概要をおさえよう(詳細は服部2019: 140-144)。

 議論の的となるのは、『マクベス』第三幕第四場。マクベスが宴会を開く場面だ。マクベスは密使から暗殺が指示通り行なわれたと報告を受ける。安心したマクベスは宴会にもどり、宴会場は満席だと口にする。しかし、同席者は一つ空席があるじゃないかと言う。他の者には見えないが、マクベスにはそこに、いましがた自分が暗殺させたばかりのバンクォーの幽霊が座っているのを見ていたのだ(その席には幽霊役が座っていて、観客にもそれが見えている)。このシーンを取り上げて、漱石の論文は三つの問いを立てている。

 一、幽霊は一人か、二人か。二、一人ならば、それはダンカンの幽霊か、バンクォーの幽霊か。三、マクベスの見た幽霊は幻覚か、実在する怪異なのか。

 一と二は要するに、戯曲中に何カ所か「ゴースト」という記載があるところを、誰の幽霊とみなして上演するかという戯曲理解上の疑問点だが、従来の注釈者たちがすでに解決済み。漱石が考えたいのは三の問いだ。漱石の議論を私なりに整理し直すと、そこには二つの問いが組み合わさっている。ひとつは、舞台の上に幽霊役を登場させるべきか、させないべきか(観客に対する幽霊の可視/不可視性にかかわる問題)。もうひとつは、フィクション作品のなかで怪異を実在するものとして描いてよいか、よくないか(怪異/幻覚という幽霊の身分にかかわる問題)。

 漱石の問いの背景には、実際に『マクベス』上演をめぐって交わされた議論がある。先ほどのシーツを被ったオバケ役のたとえを再度用いるならば、かつて、このオバケ役を廃止した劇場があった。それを批判したある批評家は、「古来の慣習からの有害な逸脱」であり、劇文化における「幽霊の権利の冒瀆」だと厳しく批判を行なった(ファーネス版: 168)。これが、観客に対する幽霊の可視/不可視性の問題の背景だ。

 しかしオバケ役が古来の慣習だからこそ、あえて廃止したくなった気持ちもわからないではない。「そもそもオバケなんていないのだから、何らかの存在感のある表現をすること自体おかしいじゃないか」と。舞台にオバケ役は登場させず、虚空を睨んで恐怖しだすマクベス役の演技を通して、その人が幻覚におそわれていることを、観客はおのずと理解する。組み合わせとしては、「幻覚」の幽霊を、観客には「不可視」とする演出を通して表現するパターン。科学全盛の時代にうってつけの幽霊シーンが完成したように思える。

 しかし、これが完全な解決とは限らない。漱石にとって、幽霊がこの世界に実在しないことは自明である。しかし、フィクションの世界が何から何までこの現実世界と同じ法則に支配されていないといけないわけでもない。作中では幽霊が実在していてもいい。それどころか、フィクションならば、実在する怪異なのか、幻覚にすぎないのか、不分明なまま……ということすら可能だ(私なら、漱石の『倫敦塔』をそんな風に理解したい)。

 さらに漱石は論を進める。幽霊なんて人間の精神が見せた錯覚に過ぎないとしても、マクベス本人にとっては、まるで現実のように感じられているとする。そして演劇は、観客に客観的な世界像を提示するだけとは限らない。あるキャラクターの視点から世界がどう見えているか、いわば主観的な世界像を観客に提示することだってあるだろう。ならば、マクベスに見えている幽霊が錯覚にすぎないとしても、まるで実在するかのような強い現実感を伴うならば、観客にも同じくらい具体的にその見え方を共有させてよいことになる。組み合わせでいえば、幽霊の身分は「幻覚」だが、観客に対しては「可視」的上演。つまり、シーツを被った誰かが舞台上にいることによって、主人公の主観が現されているということになるのだ。

 漱石は論文において、どの立場を選ぶべきという断定を述べてはいない。科学全盛の時代だからといって、表現の選択肢を狭める必要はないと考えていたのだ。フィクションにはそれぞれ固有の「お約束」がある。その際だった一例として、劇文化のなかの「オバケの権利」を擁護したともいえるだろう。

 さて、「マクベスの幽霊に就て」で漱石が立てた三つの問いは、デイトン版に挟み込まれていた紙片にも英文で記されている(『定本 漱石全集』第27巻、岩波書店2020 :336-338)。とりわけ三つ目の問いについて論じた部分を訳してみよう。「この文明の時代にあってもなお、まったくもって幽霊(apparitions)は文学中にあってよいものだ。なぜか?(わが文学論講義を見よ[See my lecture on Literature])」。「マクベスの幽霊に就て」と、そのもととなった『マクベス』講読講義の議論は、同時期に漱石が行なっていた「文学論」講義と、もともとつながっていたのだ。つまり、科学全盛の時代にあってもなお、「超自然的要素」(『文学論』では「超自然F」ともいう)はフィクションの立派な題材たりうる。現実をありのままに描くリアリズムが全てではないのだ。

 実は、シェイクスピア講義と「文学論」講義の連動はこれに留まらない。むしろ、ここからが重要だ。次回は、今回とは図と地を反転して、「文学論」講義のなかでシェイクスピアにふれた部分に注目してみよう。

 

参考文献

木戸浦豊和(2013)「東北大学附属図書館「漱石文庫」について」(『日本近代文学』78、日本近代文学会)

服部徹也(2019)『はじまりの漱石――『文学論』と初期創作の生成』(新曜社)

山本貴光(2017)「マルジナリアでつかまえて② 読書とはツッコム事と見付たり」(『本の雑誌』2017年11月号)、「マルジナリアでつかまえて③ 攻めの読書は創作のエンジン」(『本の雑誌』2017年12月号)

 

 

[1] 森鷗外旧蔵書は東京帝国大学図書館に寄贈されたことにより、「鷗外蔵書」という印を押したあとは館内の分類基準に沿ってばらばらの書架へ収蔵されてしまった。不完全な目録しか残されていなかった鷗外旧蔵書は、2005年から5年間かけた調査プロジェクトによりデータベースが作成された。

出口智之「鷗外文庫について」https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2012/introduction.html

「鷗外文庫書入本画像データベース」https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/page/home

[2] 「漱石の肉筆を後世へ!漱石文庫デジタルアーカイブプロジェクト」https://readyfor.jp/projects/soseki-library

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著者略歴

  1. 服部 徹也

    1986年、東京生まれ。2018年3月、慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(文学)。2018年4月より大谷大学任期制助教。専門は日本近代文学、文学理論。2019年9月に新曜社より『はじまりの漱石――『文学論』と初期創作の生成』を刊行。

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