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ツバメのかえるところーーはじめて出会う「部落問題」

第5回・私と部落問題・その1<家制度・家柄・結婚のこと>

 結婚差別についてお話する前に、私がなぜ部落問題、とくに結婚差別問題に関心を持ったのかということについて語っておこうと思います。その中で、結婚や結婚差別に関する予備知識もお伝えできればと思っています。
 私は1973年に生まれました。オイルショックという言葉を聞いたことがあると思いますが、まさにそれが起こった年です。戦争に負けたところから日本が復興していって、さらに目覚ましい発展の時期ーー高度経済成長期という名前がついていますーーを迎えますが、それに急ブレーキがかかった年です。
 この高度経済成長期の間には、1960年の東京オリンピックや1970年の大阪万博も開催されました(みなさんにとっては、2021年のオリンピック、2025年の万博のイメージのほうが強いと思いますが)。これらのイベントにあわせて、日本国内でいろいろなことが整備されていきました。
 私の生まれた年までに、その発展が終わっていたわけですから、私の子どもの頃には、今、私たちが知っている日本の姿がだいたいできあがっていました。すでに道路は土ではなくアスファルトでしたし、高速道路も新幹線(東海道新幹線だけですが)もあったし、太平洋側には大きな工業地帯が広がっていたし、個人商店だけでなくスーパーマーケットもありました(コンビニはなかったです!)。
 その時代から現代までに大きく変わったのは通信技術で、90年代からパソコンが普及しだして、インターネットが家庭で使われるようになり、携帯電話(スマホではありません!)を持つ人がどんどん増えていったことかもしれません。
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 私が子どもだった80年代前半には、飛行機に乗って海外旅行にでかけるのは、すでにめずらしいことではありませんでした。1960年代のなかばに、自由に海外に行ってもいいことになったのです。それまでは仕事や留学などの目的がなければダメだったのですが、遊びや観光でもいいことになったのです。憧れの行き先といえば、なんといってもハワイです。団体旅行といって、50人ぐらいの観光客がガイドさんにくっついて集団行動するスタイルが主流でした。大人が修学旅行しているような感じでしょうか。航空会社の団体旅行に参加する人は、企業ロゴのついたショルダーバッグを配布されたので、みんながお揃いのカバンをさげていました。
 「1ドルは360円だった」と聞いたことがあるでしょうか。円とドルの関係が固定されていたのです。1ドルを手に入れようと思ったら360円払うというルールです。1973年からは、360円に固定するのをやめました。そして76年には、1ドルを手に入れるために何円いるのかは、毎日変わるというルールになりました。
 そこから90年代なかばまで、日本円で世界中のモノやサービスを買う購買力はどんどん上がっていきました。私が小学生の頃は、まだまだ外国製品は贅沢なものでした。ヨーロッパ製の化粧品(いまどきはコスメといいますね)やお酒はとても高級品で、国産のものよりずっと高価だったことを覚えています。
 海外旅行やヨーロッパのコスメが身近になったのは、いわゆるバブル時代でした。私はまだ子どもでしたが、20代のお姉さんたちが海外旅行にでかけたり留学したり、免税店でブランドのバッグやコスメをいっぱい買うという情報を耳にしていました。私も20代になったら、あんなふうに海外に行ってお買い物できるのかなと思っていました。ところが、私が20代になった90年代半ばには、日本は不景気な時代に入っていました。90年代、2000年代、2010年代に生まれたみなさんは、「どんどん経済発展する日本」の姿は知らないんですよね。
 このように、景気がよくなったり悪くなったりした日本をみながら大人になりました。とはいえ、高度経済成長といういちばん大きな変化のあとに生まれているので、自分より上の世代の人たちほどは、社会が変わったなあという実感は薄いと思います。
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 一方で、恋愛や結婚、家族、それからジェンダーやセクシュアリティといったことに関する、人々の考え方はずいぶん変わったなと思います。
 私が子どもの頃、まわりの大人は、ほとんどお見合いで結婚した人たちでした。結婚した女性の多くは主婦をしていました。そして、大人はだいたい結婚していました。当時の日本は、「皆婚社会(誰もが結婚する社会)」だったのです。
 ところで、お見合いという言葉を知らない人がいるかもしれません。お見合いとは、仲人(なこうど)さんという仲介者が、結婚させたい男女を引き合わせるという、結婚の方法です。仲人さんは、年齢や「家柄」などの「つりあい」が取れそうな組み合わせを考えて、縁談(お見合いの提案)を持ちかけました。明治や大正時代を舞台にした漫画やアニメで、お見合いを知ったという人もいるでしょう。
 しだいに、自分のまわりで恋愛結婚する人が出てくるようになりました。いとこが勤め先の同僚と恋愛結婚しました(「職縁婚」といいます。恋愛結婚ではあるのですが、会社内の狭い範囲で知り合う恋愛結婚で、少しお見合いの要素もある結婚です)。そのあと私の兄が結婚したのですが、漫画やドラマみたいに恋愛結婚した人をみたのは、それが初めてでした。
 兄は「あとつぎ」ということで、幼い頃から、親戚たちに「いい相手をみつけてあげよう」とお見合いをほのめかされていました。私自身も、周囲の大人たちから、いずれ縁談を持ってくると聞かされていました。だから、「女の子は、勉強できても困る」といったことも言われました。つまり、「つりあい」を考えると、女性は男性より学歴が高くてはいけないので、あんまり学歴をつけると紹介できる男性がいなくなるという意味です。
 私は中学高校の多感な時期を、いずれお見合いさせられるのかと暗い気持ちで過ごしましたが、大学1回生のときに兄が恋愛結婚したことで、その呪縛から放たれました。実はその頃、日本全体を見渡せば、すでにお見合いは少数派になっていたのですが、私はそれを知らなかったのです。だから、友人のなかには、私がお見合いの話をすると、いつの時代の話をしているのだと笑う友人もいました。一方で、私と同じように、いずれお見合いの話があるだろうという友人もいました。
 2000年代より後に生まれた人のなかにも、お見合いの可能性を親などからほのめかされている人は、わずかながらいると思います。
 ジェンダーやセクシュアリティといったことは、まったく聞いたことがありませんでした。90年代に大学に入って、人権問題の授業ではじめて知りました。当時、大学授業でジェンダーを扱うことは増えてきていましたが、同性愛・異性愛について考える授業は当時とても珍しかったと思います。
 その先生が中心となって、ジェンダーやセクシュアリティについて啓発するブックレットを作ったのですが、大学でセックスのことを教えるなんて恥ずかしいことだと、なんと、公式に配布することを止められてしまった、ということがありました。先生のゼミ生である私たちは、このような知識の大切さを学んでいましたから、みんなで大量に持って帰って、個人的にたくさんの人に配りまくるという作戦に出ました。
 それから20年以上経ちましたが、いまでは中学や高校の段階で、性的指向や性自認(性同一性)について学ぶ機会も増えています。私の時代に比べると、格段に理解がすすんでいると思います。でも、皆さんからすれば、「まだまだ足りない!」という感覚だと思います。もっともっと、制度がよくなり、人々の知識も増え、認識も変わっていけばいいですよね。
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 さて、もう一度、私の子ども時代の話に戻ります。私は幼い頃から、社会のしくみ、特に人々の暮らしのなかにある「常識」とか「慣習」みたいな、法律には書いてないけど守らないといけないルールにとても関心がありました。
 しかし、こういったことは、詳しく知ろうと思っても、なかなかできないのです。学校の教材や学習雑誌には、自然科学、文学、政治のしくみ、環境問題など、いろんな情報がたくさんあります。しかし、私の知りたいことは、どうもあまり学校や教材では扱っていないっぽいのです。「科学が好きな博士キャラ」「歴史マニア」「読書家」みたいな、賢くてかっこいい感じの肩書きに当てはまらないので、自分にはそういった勉強面での「とりえ」がない子なんだと思っていました。私の関心ごとには、社会学とか民俗学とか人類学とか、そういった名前がついているということを知ったのは、大学に入ってからのことでした。
 社会のしくみに関心のある「子ども社会学者」の私が、日常のなかで、とても不思議に思っていたことがありました。漫画や昔話などでは、地位の高い人は尊敬されるべき人物として描かれます。でも、気取り屋で自慢ばっかりして尊敬されないお金持ちキャラもいます。実際の生活のなかでも、たとえばPTA会長とか町内会長、校長先生といった人と、会社の社長をしている人とは、ちょっと扱いが違う場合があるなと思っていました。肩書きがすごいことと、お金を持っているということは、重なる場合もあるけど、重ならない場合もあるなと思っていました。だから、「えらい人」には2種類あるのかなと思っていました。
 それを解くためのひとつのキーワードが、「家柄」という言葉でした。昔から「えらい」人の家というのがあるらしいのです。そういったおうちは、たいていそれなりに裕福でしたが、必ずしもすごいお金持ちというわけではないのです。
 また、「成金」という言葉にもびっくりしました。将棋で、「歩が金に成る」ことをもじって、急にお金持ちになった人のことをいいます。急にお金持ちになったけど、「育ちが悪い」のでマナーが身についておらず、人々から冷たい目で見られるといった描写が、ドラマや漫画によく出てきました。お金を持っているだけでは尊敬されないどころか、見下される場合があるのです。そういう人が、投げかけられる悪口が、成金という言葉でした。
 こういった知識は、現実の社会からというよりは、漫画やテレビの描写から、感じ取っていったと思います。
 そして、「家柄」とか評判の「よい・悪い」という軸と、お金のある・なしの軸をかけあわせて、社会的なポジションが決まるという図式を理解しました。その他にも、勉強や仕事でとても優秀であるとか、スポーツがすごくできるとか、芸能人みたいに容姿がいいといった、別の評価基準もあることに気がついていきました。
 このようにして、お見合いというもののしくみが、なんとなく理解できるようになっていきました。最初の方でも述べましたが、お見合いとは、本人同士が好きになって結婚するのではなく、家と家との「つりあい」を見定めて、親や仲人(なこうど)が結婚相手をマッチングするということです。
 いまから100年前ぐらいから、お見合いは庶民の間でも広く行われるようになりました。戦後に恋愛結婚のほうが優勢になりますけれども、その後も完全には廃れていません。逆に、子どもの結婚を親同士のお見合いで決めるサービスや、マッチングアプリなども広い意味ではお見合いといえるので、現代風に形を変えながら根強く残っているといえそうです★注1
 お見合いというものが理解できるようになると、大人が子どもたちを品定めするような発言をする意味もわかってきました。大人たちは、結婚相手として選ばれやすそうな性格や振る舞い、容姿を、子どもたちがもっているかどうかを評価していたのです。
 例えば、女の子に対しては次のように言われました。「この子はべっぴんさんだね」「女の子なのに色黒だ」「肌が白いのは七難隠すから」「振袖が似合いそう」「気がきつい」「気が弱い」「この子は気が利かない」「愛想がない」「家事ができるようにならないと」「勉強できすぎたら貰い手がない」「反抗的だ」「口が悪い」「女らしい趣味を身につけなさい」「もっと清楚な服にしなさい」「みだしなみに気をつけなさい」……。
 私はいわゆる「お転婆娘」で、動作が活発で、気がきつく、男の子とも激しい喧嘩をするし、口もたつ女の子だったので、私の態度が気に入らない人にしばしば「あなたみたいな子は、一生結婚できない」といったことを言われ続けていました。言った人からすれば、最上級の非難の言葉だったかもしれませんが、私は心のどこかで、「じゃあ見合い結婚させられなくて済むかもしれない」と、少し安心する言葉でもありました。
 一方、時代は見合いから恋愛の時代に移行しつつありました。その頃の少女漫画は、恋愛の話一色です。運命的な出会いを描いた純愛もののストーリーばかりでした(★注2)。そんな恋愛を描いた漫画のなかにも、好きな人と結婚したくても親や周りに反対されるというストーリーがありました。吸血鬼の父と狼女の母を持つ女の子が、人間の男の子との恋を母親に邪魔されるといった漫画もありました。こういった経験が、結婚差別問題を研究するひとつのきっかけになったわけです。
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 もうひとつのきっかけは、部落問題学習です(当時は「同和教育」と呼ばれていました)。私の住んでいた街では、小中学校では、1年に1回だけ、部落問題の授業がありました。6年間でたった6回でしたが、私はこの授業に文字通り「食いつき」ました。これまで不思議に感じていたことを扱っていると直感したからでした。お見合いのときの「家柄」の中に、部落問題も含まれていることをうっすらと理解していたのだと思います。
 江戸時代の身分を理由に、好きになった同士が結婚できずに引き裂かれるという理不尽な話を聞いて、許しがたいことだと思いました。授業後の感想文も、力いっぱい書きました。6年間、市内の学校の優秀作品を集めた文集に掲載されていたようです。
 しかし、新しい疑問がわきおこりました。授業では、「大事な問題です」「こんな差別がまだ日本には残っているんです」と先生たちは言うのに、なぜ年に1回しか授業をしないのでしょう。大事なことなら、もっとやればいいのに、と思いました。また、そんなに重要な問題だったなら、なぜニュースで大々的に取り扱わないのでしょう。なぜドラマや漫画のテーマにならないのでしょう。それに、私の作文が文集に掲載されるなら、全校集会で名前を呼んでもらえそうなものですが、なぜか文集には名前も出さないままなのです。
 私の親も、あまり部落問題についてよくわかってなかったようで、家で聞いてもほとんど何もわかりませんでした。もっと詳しく知りたい、そんな気持ちでいっぱいでした。中学や高校になれば、もっと知ることができるのかと期待していましたが、中学校でも学ぶ機会は年に1回あるかないかでした。高校では年に1回、人権学習として映画を観たのですが、原爆被害(『黒い雨』)、在日コリアン(『潤の街』)、あともうひとつは何だったか覚えていないのですが、それらもとても興味深かったのですが、部落問題は扱われませんでした。
 見合い結婚という制度や、女の子がのびのびと振る舞えないこと、部落差別のせいで好き同士が結婚できないことは、どれも「家」や「家柄」と関係があって、全部つながっているということにも気づいていきました。私がもっともっと知りたいと思っていたのは、こういった日本社会のしくみ全体でした(このように書くと、私がとても差別問題に敏感で、人権意識が高い子どもだったようにみえるかもしれませんが、決してそういうわけではありませんでした)。
 ずっと知りたいことを抱えていたのに、どうやってこの問題に近づいていっていいのかまったくわからなかったのですが、大学に入ってはじめて、女性差別や部落問題について学べる授業に出会いました。さきほど述べたゼミの先生の授業です。高校まで誰も教えてくれないのに、大学ではそういったことを、何時間も教えてくれるのです。本当にびっくりしました(今では、高校の家庭科などでも扱うことが増えてきたので、現代の若者がうらやましい限りです)。
 こうやって私は、社会学という領域で、子どもの頃から疑問に思っていたことを、研究できるようになったのです。
 さて、ここまで、私が部落問題や結婚差別問題と出会っていった話をしながら、日本の恋愛や結婚のあり方の変化をなぞってきました。
 いよいよ、次回から、結婚差別のお話に入っていきます。

 

★注1
 お見合いは、皆婚社会、つまり結婚して「当たり前」の社会を支えていました。しかし、当時も多様な性的指向・性自認(性同一性)を持つ人がいたはずですから、望まないかたちの結婚をせざるをえなかった人も少なくなかったはずです。
 また、皆婚といいつつも、100%ではありません。例えば、障害や病気などを理由に、最初から結婚の可能性はないと決めつけられて、お見合いから排除されていた人もいたと考えられます。親戚に障害者がいるということを理由に、お見合いを断られるということさえありました。
 ですから、恋愛婚中心の社会とは異なった、お見合いの時代や皆婚社会特有の苦しさというのがあったのではないかと思います。

★注2
 見合い婚から恋愛婚へという流れは、若い人々にとっては古い慣習からの解放でした。しかし一方で、恋愛への価値が大きくなりすぎて、恋愛しなければ、みんな恋愛するもんだ、という圧力も高まっていきました。いまの若い人は、恋愛や結婚に対する優先順位は低いとか関心のないことなどを、以前よりは言いやすくなっていますが、この時代は恋愛に興味がないというと、変わった人、つまらない人といった扱いを受けたと思います。また、同性愛であるとか、性別に違和があるとか、恋愛や性に関心がないといった、性的指向や性自認(性同一性)が多様であることへの理解はほとんどなかった時代でした。むしろ、ゲイであること、恋愛に興味がないことなどは、公共のメディアでさえ面白おかしくネタにしていいという風潮でした。
「女の子はみんな結婚に憧れているもんだよね」「女の子はみんな恋バナ(恋愛の話)が大好きだよね」「大学生や短大生なら、みんな合コン(合同コンパ。出会いを目的とした飲み会のこと)行くよね」「彼女できた?」「ナンパ(軟派。軽い人の意味。男性が女性に気軽に声をかけて、お茶などに誘うこと)しにいこうぜ」「そんな生意気な態度だと結婚できないぞ」といったことが、日常会話で繰り広げられていました。
 もちろん、そういったことをしんどいと思っていた人もたくさんいたはずですが、興味がないと言えば「ネクラ(根が暗い人の意味。「陰キャ」と似た言葉です)」だと、興味がないことがまるで悪いように言われることさえあったのです。

 

 

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著者略歴

  1. 齋藤 直子

    1973年生まれ。大阪市立大学人権問題研究センター特任准教授。博士(学術)。専門は、家族社会学と部落問題研究。主な著作に『結婚差別の社会学』(勁草書房、2017年)、『入門家族社会学』(共著、新泉社、2017年)など。

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