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書評

末田清子 著『コミュニケーション・スタディーズ――アイデンティティとフェイスから見た景色』(評:新崎隆子)

本書は、著者の研究テーマであるアイデンティティとフェイスの視点からコミュニケーションを論じる、初学者のための解説書である。もし読者が、コミュニケーションとは人と人とのやり取りのことで、その研究の目的は人間関係を円滑にするためのものであるというイメージを抱いて本書を手に取るならば、「私が『私であること』を形作るプロセス」(i頁)という記述に触れて、否応なく視点の転換を促されるであろう。自分が「自分である」ことを見つめることがコミュニケーションを考える基本であるという姿勢は、様々なコミュニケーション理論や豊富な事例、著者の研究や個人的な経験の紹介などを含む全編に響く通奏低音である。

本書は6つの章から構成される。第1章は「コミュニケーションとは何か」という問いに対してシンボリック相互作用論の視点から「シンボルを構築し、共有し、再構築するプロセス」と答えている。シンボルとは他者と共有できるしるしであり、言語も非言語的なものも含まれるが、共有できないときにはコミュニケーションは成立しないとされる。そして、「自己は他者とのコミュニケーションを通して構築される」という、著者のコミュニケーション観の根幹が示されている。

第2章「アイデンティティとコミュニケーション」と第3章「アイデンティティの顕在化・潜在化」では、人がコミュニケーションにおいて自分のアイデンティティをどのように認識し、提示しているかについて、アイデンティティ理論を引きながら詳しく説明されている。2つの章を合わせて全体のおよそ4分の1のページ数が割かれており、著者が最も力を入れた部分であろうと推察される。説明が分かりやすく、初学者にもアイデンティティがコミュニケーションと切り離せないものであることが納得できるだろう。

第4章「コミュニケーション調整」では人が相手に合わせて行うコミュニケーション調整について、対人レベルおよび集団間レベルの難しさを取り上げている。日本における外国人の母語の保護について、民族言語バイタリティという概念から解説している点は興味深い。第5章「フェイスとは何か?」は、多くの読者が関心を寄せる「どのようにすれば人間関係を円滑にするようなコミュニケーションができるのか」という問いに対し、フェイス、すなわち「他者に見せようとする社会的に価値のある自己の姿」という視点から答えを与えている。フェイスの種類、文化の影響について丁寧に述べ、教育現場や組織、さらにSNSにおけるフェイスの表出について具体的な問題提起がなされている。

6章「コンフリクトの背後に何があるか?」では、身近で具体的な事例を取り上げて解決のモデルを紹介し、コンフリクトを起こさないためにはフェイスの背後にあるシェイム(恥)とプライド(自尊心)という2つの感情のバランスを保つことが肝要であると説く。そして最後に、自らの経験を語り、失敗して自分のフェイスが脅かされたときには、シェイムを回避せずに向き合うことでプライドを取り戻すことができるというエールで締めくくっている。

本書を通読すると、論旨が極めて明快なことに驚かされる。シンボリック相互作用論に基づいてコミュニケーションを定義し、コミュニケーションの諸相をアイデンティティの視点から眺め、フェイス理論からコンフリクトを捉え、最後にシェイムとプライドの均衡というコンフリクト解決のための具体的な提言に導いていく。理論的説明には分かりやすい図を用意し、随所に問いかけやエクササイズを設けることで、読者やこの本を用いて授業を受ける学生の興味が持続するような工夫がなされている。また、13のコーヒーブレイクには著者の研究や個人的体験だけでなく、指導した学生たちによる研究発表が紹介され、コミュニケーション・スタディーズを身近なものに感じさせる。

コミュニケーションの重要性を否定する人はいないだろう。評者は数々の国際会議の通訳を手掛けてきた。テーマの違いに関わらず、議長の締めくくりの挨拶ではコミュニケーションの大切さが強調されることが多い。それにもかかわらず、社会のあらゆるレベルで、コミュニケーションの齟齬による問題が起こり続けている。一人でも多くの人が本書を手掛かりにコミュニケーションを考え、個人と世界の人々の幸福のためにどのような行動を取ればよいかを模索していただきたい。

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著者略歴

  1. 新崎 隆子

    会議通訳者・NHK放送通訳者

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