石井宏典 著『根の場所をまもる――沖縄・備瀬ムラの神人たちと伝統行事の継承』(評:木下寛子)
待ちに待っていた本がやっと出てきました。本書『根の場所をまもる――沖縄・備瀬ムラの神人たちと伝統行事の継承』は沖縄備瀬の「根の場所」(年間を通して開き続けられる神行事の場所)が守られ引き継がれていくことにどのような意味があるのかを汲み取ろうとするものです。全体をひととおり読んだところでの所感を簡潔に申しますと、この「根の場所」の意味が「誰にとっての」ものなのか、言えそうで言えないところに、この場所の意味、あるいはこの場所をまもることの肝心なところがあるように思いました。
この場所の意味が幾重にも重なりながら響き合うさまは、ぜひ読み手がそれぞれに、本書を手に取り、耳を傾け、聴きとってください。そのかわりにここでは、本書に見え隠れする、備瀬に足を運び続けた著者の眼差しや姿勢に注意深く目を凝らしてみたいと思います。著者はご自身については多くを語りません。あくまで備瀬の場面と語りのために言葉を尽くします。しかし、備瀬のさまざまな場面や出会って来た人たちの語りを記述する言葉のなかに、著者の姿が透けて見えてきます。そして私たち読み手は、著者のその背中を追いかけるようにして、尊い場所と時間に、いくらか立ち会うことができるのです。
この本の背景には、2009年からの約10年にわたるムラ通いがありました。さて、10年という歳月は、はたして短いのか、長いのか――。思いをめぐらします。さらっと書かれていますが、ひとつのムラに巡り会い、神行事という、ムラにとってとても大事な場に足繁く通って、たとえばヌルさんと親しくおしゃべりし、嘆息さえも耳にすることができる距離で共に過ごせるようになるのに、10年というのはあまりに短い。沖縄・備瀬との縁は、1989年以来だそうです。前々からの脈々と続く縁に支えられたものだったと知ると、10年という歳月に起きた巡り合わせもいくぶん得心がいく気がします。しかし、それでも著者が研究を許してもらうため、備瀬の神様に報告に行く時の、素手素足で投げ出されたような心細さと不安に、なんと胸の締め付けられることか。そこにはつきあいの長さだけでははかることのできない経験がありました。そしてそんな経験を潜り抜けてきたひとりの人の、備瀬の歴史を語る言葉の広がりと深さに、ひたひたと静かな驚きが押し寄せてきます。
1996年に東北大学に提出された著者の博士論文「移動する共同体」は、備瀬を離れ、移動する人たちのライフヒストリーから、移動する人々がどのような共同体を生きてきたのか/生きているのかを問うものでした。それはまず、異なる場所を生きてきた者同士が出会ったときに、互いに何者であるかを特定のカテゴリーに押し込めてごく単純にして理解しようとしてしまう力学に抗い、そこからなんとか抜けだそうとする努力と共にあったようです。そしてその努力は、備瀬を離れて生きている人たちの「語り」に耳を傾け続けることによって実現されていきます。
これに対して本書では、手仕事を共にしたりお茶を飲んだり、行事に必要な道具を取りに走ったりしながら、相手と場を共にする経験がとても大事な位置を占めるようになりました。そして相手の話を聞くことも、その一端として位置付けなおされているようです。一見すれば著者の歩みに何か大きな変化があったように見えなくもありませんが、実際のところ、つまるところはたったひとつの願いを基点に編みなおされてきたのですね。備瀬から遠く移動して生きる人たちが、世代をこえて、場所を移りながら経験してきたものに思いをはせる時、その人たちの言葉に一心に耳を傾けることになるのは必然だったのだと思います。そして移動する人たちが根の場所として想いを馳せ、遠くから望んでいた根の場所に、今度は自らも足を運びはじめたとき、その場所が時代の流れの中で避けられず変わりゆくさま、そしてそのなかで保ち続け守られているものが見届けられるのに、その場所で相手と時間を共にすることの丸ごとが大事になるのも必然だったのでしょう。著者が「接近法」と呼ぶのも、対象に向かって「アプローチ」する方法としてではなく、その人の傍らに居(て同じことを経験し)たい、という願いの表明と受け止めることができるように思いました。
分かったかのように書いてしまいましたが、私もまだまだ本書をざっと一通り読んだだけです。それでもフクギ並木で知られる風光明媚な場所が、本書のなかの丁寧に積み重ねられた言葉をくぐった今、少し違うものとして見えてくるようです。ミーウガンに渡る一行をとらえた表紙の写真のすばらしさも、よりよく見えてくるようです。だから、もっともっとしつこく読んで、著者のあとを追い、味わいたいと思います。著者が備瀬を歩き、見て、経験してきたことに、私も少しでも近づきたい、と願いながら。
最後に蛇足ながら、著者の石井さんには、備瀬から遠く離れて生きる人たちのお話も、たくさんの人が手に取れる本として送り出していただきたいなあ、という願いも申し添えておきます。「根の場所」の話は、「移動する共同体」(博論)の話と一体になって読まれることで、より一層輝きを放つはずなので。
(2020年4月6日)
※ 補 足
この記事は2020年4月6日に発行されました。それから約3年が経ちました。そして嬉しいことに、間もなくこの記事で願っていた「備瀬から遠く離れて生きる人たちのお話」が、『都市で故郷を編む:沖縄・シマからの移動と回帰』という名前の書籍になって東京大学出版会より出版されるそうです。目次を見る限り、博士論文の「移動する共同体」に、さらに「紡績工場にできたたまり場:戦前期における沖縄一集落出身女工の体験」(2012)や「ならいとずらしの連環:那覇・新天地市場の形成と展開」(2008)、「語りあいのなかの〈故郷〉:都市の同郷会に集う老年期女性たち」(2019)などの近年の論考が加わって織り出された本のようです。表紙に掲げられたのは新天地市場の写真。手に取れる季節がもう少しでやってきます。きっと熟した時間だけ、まったく違う手触りの本になっているだろうと予期しているところです。
(2023年3月29日)
文 献
石井宏典(1996)移動する共同体:環太平洋地域における沖縄一集落移民の展開.東北大学大学院文学研究科博士論文.
石井宏典(2008)ならいとずらしの連環:那覇・新天地市場の形成と展開.サトウタツヤ・南博文(編),質的心理学講座第3巻:社会と場所の経験(pp.45-76).東京大学出版会.
石井宏典(2012)紡績工場にできたたまり場:戦前期における沖縄一集落出身女工の体験.茨城大学人文学部紀要:人文コミュニケーション学科論集,12,29-62.
石井宏典(2019)語りあいのなかの〈故郷〉:都市の同郷会に集う老年期女性たち.茨城大学人文社会科学部紀要:人文コミュニケーション学論集,4,1-26.
石井宏典(2023)都市で故郷を編む:沖縄・シマからの移動と回帰.東京大学出版会.