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木下寛子「学校の時間」

新しい場所、新しくなる場所

 前回は、学校の時間がはじまる日、つまり小学校の入学式の日の話をした。入学式のその日、互いに互いをよく知らないまま、新1年生の子どもたちは、学校の場や先生たち、上級生たちに待ち望まれ、学校の時間のはじまりを迎えるのだった。その入学式の日、緊張の面持ちでそこにいた新1年生の耳にどれだけ届いているかわからないけれども、家族はもちろんのこと、先生たちや在校生の子たちの間でも「かわいい」の大合唱が起こっている。小さなジャケットやワンピースの袖に腕を通し、まだ少し身体の大きさに見合わない大きなランドセルを背負って、よいしょ、よいしょ、と階段をのぼってくる姿。階段をのぼりきったところで、床にぺたんと座って上靴を履く姿。6年生が「こっちにおいで」と声をかけると、片足を軸にして体まるごとでくるりと振り返り、両手を上げて駆け寄ってくる姿。そして、手足をばたばたと大きく動かしながらいろいろなお話をしてくれる様子。新1年生のそのような姿を前にして、誰もが「かわいい」という言葉があふれてしまうのを止められない。

 ところが入学式の翌日になると、その大合唱はぱたりとやんでしまう。そのかわりに、先生たちや上級生たちは、新1年生の声に、作業や授業の手を止めて耳を澄ませ、その姿に足を止めてじっと見つめる。時にはわざわざ新1年生の教室の前までやってきて、廊下側の窓や出入り口からそっと眺めていることすらある。

 今回から数回、入学式後の数か月の出来事に留まって、新1年生の子どもたちの経験と、そこから見えてくる学校の姿について話すことになる。今回はその手始めに、学校の日々を過ごす者が、新1年生のすぐそばでその声に耳を傾け、その姿に目を奪われてしまう理由について話したい。

 入学式後、小学校は久しぶりに1年生から6年生までがだいたいそろった状態になる。とはいえ、子どもたちは、ほとんどの時間をそれぞれの学年のフロアでそれぞれに過ごしているので、新1年生の歓迎を兼ねた遠足のときまで、全学年の子どもたちが勢揃いしているのを目の当たりにする機会はやってこない。それでも、ふとした瞬間、思いがけず「ああ、本当に新1年生が入ってきて、学校で毎日を過ごしはじめたんだな」と気づき、「学校が久しぶりに子どもたちでいっぱいになったな」と思うことがある。

 それはたとえば、校舎の1階にある事務室や職員室で過ごしていて、直接1年生の姿を目にしていないときにも訪れる。各クラスで授業が行われている昼間の時間帯、事務室や職員室は人がまばらで、パソコンのキーボードを打つ音や書類を読み返すつぶやき声、打ち合わせの小声のひとつひとつが聞こえるほどに静まり返る時間がやってくる。

 そこに唐突に、天井からパタパタ、という無数の軽く弾む音がたえまなく聞こえてくる。そしてときどき、ドン、パタン、と少し大きめの音がする。それらの音は何か物が落ちたり、転がったりしていく音や、机や椅子を引きずる音とも違う。耳になじみのない奇妙な音に私が驚き、ぽかんと口を開けて天井を見ていると、事務室の先生が「1年生だよ」と教えてくれた。

 あらためて耳を澄ませてみて、ああそうか、なるほど、と思う。1年生が、ちょうど階上の教室を思い思いに歩いたり飛び跳ねたり、スキップしたりする足音が、階下の職員室に響いてきていたのだ。開け放った窓からピアノの伴奏が聞こえはじめると、やがてそのメロディーに誘われるように、ばらばらだった足音は同じリズムでステップを踏み、また、トン、トン、とリズミカルにジャンプする音へとまとまっていく。ただそれだけで、1年生の子たちを直接見ているわけでもないのに、事務室や職員室の先生たちの表情もふっとほころんでしまう。担任の先生が弾くメロディーに誘われて踊るような1年生の足取りが、ひとりひとりが履く白い上靴のまぶしさもろとも、目に浮かぶようだった。

 天井から響く足音に、昨年度の1年生が2年生に進級し、教室が空いてしまった4月以来、聞こえなくなっていた音があったことに気づかされる。そしてその音の耳慣れなさに、そもそも去年の1年生の教室が、そう言えばいつのまにか、こんな軽やかでひょうきんな音を響かせなくなっていたことにも気づかされる。

 新1年生の軽やかな足音は、ただ全学年の教室が埋まったことを告げてくるだけではない。ずっと小さくて幼いように見えていた2年生たちが、1年間の間に、何やらずいぶん小学生らしくなっていたことも教えてくれるのだ。

 先生のピアノに合わせて、今は階上でステップを踏んでいる新1年生も、次の4月には学校にすっかり慣れて、体も一回り大きくなっているだろう。それは2年生以上の子どもたちも同様だ。

 中休みになると、新1年生たちは校舎側の校庭のふちに集まってくる。ある子たちは、虫か何かを見つけたのか、しゃがんで頭を寄せ合っていたかと思うと、きゃあきゃあ声を上げてあちこちに散っていき、しばらくすると駆け戻ってくる。ある子たちは、花壇の縁石の上をそろりそろりとバランスをとって歩き、ある子は、校舎の壁に向かってしゃがみこんで、何かをじっと見つめている。またある子たちは、コンクリートで固めた大きな池のふちに立って、中を覗き込んでいる。たぶん鯉が泳ぐのを見ているのだ。黄色い帽子をかぶった子どもたちの、頭が右左に揺れる様子は、遠目に見ると、建物の周りを縁どるたんぽぽのようだ。この学校には、頭を寄せ合って食い入るように見つめるほどの何かとてもよいものが、どうやらたくさんあるらしい。

 今回話そうとしていたのは、学校の日々を過ごす者は、なぜ新1年生の声につい耳を傾け、その姿に目を奪われてしまうのか、ということだった。そしてそれは、新しくやってきた人たちの一挙手一投足が学校という小さな世界を新たに何かとても素敵なものに満ちた場として照らし出してくれるからだった。4月になると1年分の変化と慣れを示す子どもたちのもとに、1年生が新たにやってくる。そして学校の場のひとつひとつに夢中になり、喜び、時にびっくりしたりする挙動や姿を見せてくれる。その挙動や姿は、まだ学校という場になじみがない子どもたちのものとしてその場の中でくっきりと際立つと同時に、去年1年をかけてひとりひとりがなじみ、慣れ親しんで、少し見えにくくなっていた学校の場とその経験を際立たせてくれて、何か真新しくとても不思議な場として見出す機会を与えてくれる。新1年生にとっての新しい場所は、迎える私たちにとっては新1年生がやってくるたびに、幾度も新しくなる場所だ。

 黄色い帽子の1年生は、相も変わらず池の周りで頭を寄せ合っている。私も1年生たちが集まっているところに歩み寄っていった。気づくと、先生たちも少し遠くの職員室の窓から、池に集まる1年生の様子を見つめていた。

こうして私たちは、1年生が照らし出してくれる学校という場に、毎年のように飽かず驚くことができる。

 


[編集部より]
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著者略歴

  1. 木下 寛子

    きのした ひろこ
    神奈川県横浜市生まれ、山口県育ち。九州大学教育学部卒業、九州大学大学院人間環境学府博士課程単位修得退学、博士(人間環境学)(九州大学)。近畿大学九州短期大学を経て、九州大学大学院人間環境学研究院准教授、九州大学人社系協働研究コモンズ兼任。専攻は環境心理学、教育環境学。ある小学校の日々への参与の経験から、雰囲気や風土、学校の世界を問うことを研究主題にしている。主著に『出会いと雰囲気の解釈学―小学校のフィールドから』(九州大学出版会、2019)。そのほか、『学校における自殺予防教育プログラムGRIP―グリップ―』(川野健治・勝又陽太郎 編、新曜社、2018)、『老いと外出―移動をめぐる心理生態学』(松本光太郎、新曜社、2020)等の装画・挿画も担当。

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