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『東京ヴァナキュラー——モニュメントなき都市の歴史と記憶』(試し読み)

「序章 東京のヴァナキュラーを再発見する」

流動と変化の観点からもっぱら都市を眺めるのは、だいたいの場合、都市計画家、都市地理学者、社会学者ら超然とした観察者たちである。増殖する細胞、まわりをとりまく触手、いや増す通信量、洪水と侵食といった直喩。これらの直喩は、都市の景観について観察者たちが抱く最も本質的な観念と一致している——運動と、永遠に続くあてどない成長とが織りなす景色。しかし都市に住まう者は彼ら自身、こうした観点から都市を理解しているのだろうか? こうしたかたちで都市を理解したいのだろうか? われわれは疑いを抱いている。

                      J・B・ジャクソン「都市のイメージ」(一九六一年)

 

 二〇世紀後半の数十年は、パブリック・ヒストリーと歴史保存の世界的な開花期にあたる。アンドレアス・ヒュイッセンが「飽くなき博物館的文化」と呼んだこの流れのなかで、おびただしい数の場所や物が歴史的な重要性をあらたに認められるようになり、記念のために切り出されていった。過去の痕跡のなかに探られる意味の幅も広がった。政治的にいえば歴史保存は大衆主義へと転回し、商業的にいえば文化遺産はグローバルな産業の一部と化した。

 東京がこの潮流に加わったのは遅く、外から見る限り保存の対象となる物もほとんど持ちあわせていなかった。誕生以来、破壊と再建を繰り返してきた東京には、一九七〇年代初頭の時点で一世代を超える建物はほぼ残っていなかった。木材をはじめとした可燃性の建材で築かれたこの都市は、一九四五年に米国が投下した焼夷弾によってあらかた焼き尽くされたためである。他の富裕国の主要都市で、歴史保存が都市の経済と文化にとってすっかりありふれた要素となったのちですら、東京には歴史保存指定地区も、〔建築物を再利用する〕アダプティブユース事業も、〔保存再生を請け負う〕建築事務所も、再利用ないし複製された時代物の家具や古建築の建材をとりあつかう業者も現れなかった。東京の路上に残る過去の物証は断片的で総じて気づかれることもなく、市場価値は無きに等しかった。過去を示してくれる貴重な建物や町並みを欠く東京は、他の都市のようなやり方で自身の歴史を言祝ぐことはできないかに思われた。

 しかし、このように見込みが薄そうであった歴史保存をめぐる情勢にもかかわらず、一九七〇年代から八〇年代にかけ、地域の運動の担い手、研究者、建築家、芸術家、作家らが、東京の過去の足跡を記録し保存する取り組みを開始した。さらに、こうした取り組みに数多くの読者や視聴者が呼応し、同様の場所や物を探したり、直接探す代わりに本・雑誌・博物館展示・テレビ番組などを通じてそれらを味わったりするようになった。一九九〇年代に入ると、あらたに建設されたテーマパーク、ショッピングモール、レストランといった施設が、東京の過去を利用していく。東京都も、歴史を東京の強みのひとつとしてあつかいはじめた。二〇〇〇年に全線開通した都営地下鉄の路線名は、この都市のかつての名にちなんで「大江戸線」であった。一九五八年の東京を舞台に、庶民的な労働者が暮らす下町の生活模様を描いた『ALWAYS 三丁目の夕日』は、古き良き東京への懐古の波に乗り、二〇〇六年の日本アカデミー賞を席捲した。こうして二一世紀初頭までに、東京の過去は、ごく近い時期の過去をも含みつつ、価値の高い——実際のところ、相当に市場むきの——文化遺産に変貌した。

 この変貌はなぜ、どのように生じたのだろうか? 東京における遺産意識の覚醒は、著名な地区や建物をめぐる伝説的な保存運動も、歴史的建造物の法的地位の大幅な改正も、ともなうことがなかった。自治体も国も過去の再評価へと動いたのは遅く、都市景観のなかの歴史的な要素にはこれといった保護を与えてこなかった。したがって、東京における歴史保存への転回は、運動の担い手が当局に働きかけて法整備を成し遂げ、歴史的建造物を解体の危機から救ったという物語にうまくはめ込むことができない。その一方で、文化遺産という存在を、消費者の根なし草的な感覚と物事が今より単純だった世界へ戻りたいという心情を巧みに捉えた晩期資本主義の産物と見なす批判理論的な見解も、身のまわりの過去の破片を取り戻そうとする東京の一般市民の動機を、十分には説明してくれない。東京に暮らす者が新しいレンズを通して自身の都市を眺め、そのうち一部の者が自らの発見を考究し、保存し、言祝ぐようになった背景には、何らかの理由があったのだ。かかる東京の歴史化の過程は、それ自体が歴史的考察の対象とされねばならず、東京の歴史化を進めた様々な運動、主体、観客そして文脈は、個別具体的に検討されねばならない。なぜならこれらの要素は、どのような都市にも固有の文化的・政治的特質がある以上、都市の歴史化がグローバルな現象であるにもかかわらず必然的に個別的なためである。

 すべての都市はまた、その都市だけのヴァナキュラー、すなわち住まうことをめぐる地域の歴史によって形づくられた作法・空間・感覚の言語をそなえている。新住民は、翻訳を要する記号の奔流のなかで、その都市のヴァナキュラーに直面する。これと対照的に以前からの住民は、ヴァナキュラーを直感的に会得しており、意識せずして記号の奔流を泳ぎこなすことができる。ヴァナキュラーな都市の景観は、絶え間なく織り出される布地のようなものだ。過去の縦糸に現在の横糸が織り込まれていく。ひとつひとつの糸は、布の端か全体の模様のすき間にしか姿を現さない。固定された伝統というより、生成し続ける文法として、ヴァナキュラーは現代の建物および大衆文化の産物を組み込んでいく。ただし、世代を超えてつくられてきた土地所有・建設・居住・商取引の持続的なパターンには、読み解き可能なローカルな慣用語が保持されている。二〇世紀後半の東京のヴァナキュラーがもつ持続的要素のなかには、手狭な敷地・網目状の街路(ただし都市全体の総合計画は欠いている)・木造建築・低層の建物・店舗がひしめく商店街や町工場地域からなる低地の市街と、かつては塀をめぐらせ広々とした庭園を構える屋敷がならんだ(そしてその多くが公共施設に転用されるか、核家族むけ住宅用に分割されていった)山の手の市街と、自家用車の必要性を減らしたよく発達した鉄道網とが含まれていよう。

 歴史保存に取り組む非専門家や一般市民の数がしだいに増えるなか、彼らの関心は多くの場合、ヴァナキュラーな都市を構成する要素へとむかった。それはヴァナキュラーな都市が、公共のモニュメントには不可能なやり方で彼らの生活に直結していたためである。東京のヴァナキュラーに関心をむけるにあたって、保存運動の担い手と観衆はモニュメントの広壮さや抽象的な象徴性を拒絶した。第二次世界大戦後の非共産圏、とりわけ敗戦を経た旧枢軸国では、市民と国家の一体性を演出する建築、巨大な広場、そして壮麗な催しにおいて表出される、モニュメンタルな国民観念は、多くの人々から疑いの眼差しをむけられたといえる。しかし、一九七〇年代の東京で生じたモニュメンタルなものからヴァナキュラーなものへの転回を、日本が通った全体主義の過去に対する反発だと結論づけるのは早計だろう。当時の若者はすでに戦争を知らない世代であった。むしろどちらかといえば、日本におけるヴァナキュラーな都市像の倫理は、戦後の国民国家に対する疑義に根ざしていたのである。一九六四年の東京オリンピックと、一九七〇年の大阪万博(いずれも東アジアで初めての開催であった)は、戦前の計画を引き継ぎ、「生まれ変わった日本」をモニュメンタルに表現するため国民を動員した。一九五〇年代を通じて続き、一九六〇年の安保闘争で頂点に達した大衆デモでも、抵抗の政治はモニュメンタルな形式にのっとっていた。このようにモニュメンタルな国家は、非民主主義的な体制下に生まれながらも、戦後民主主義のもとで強靭に永らえたのであった。

 二〇世紀後半の東京で実践された歴史保存は、モニュメンタルな国民の象徴言語が、大衆社会によって無意味化されゆく時代に属していた。ヴァナキュラーの保存を目指す運動の担い手が象徴性に代わって選んだのは、ひとつは基礎的な物質性であり、今ひとつは美術史家のアロイス・リーグルがその古典的エッセイのなかで「経年価値」と名づけた価値、すなわち過去の遺物のたしかな存在感であった。J・B・ジャクソンが示唆したように、「超然とした観察者たち」が抽象概念から都市を読み込みがちであるとすれば、没入型の住民は、身体と感覚の次元で掴みとれるような人間存在の刻印を追い求める。この次元においてヴァナキュラーな都市の遺物は、国家的な象徴性にも官の専門知にも頼ることなく直接語りだすように見えたのであった。

 東京の過去を再生し利用することに取り組んだ多くの人々にとって、活動への参加ははっきりとした政治的ふるまいではなかった。しかし、ヴァナキュラーな遺産をめぐる二〇世紀終盤の解釈すべてを貫いて流れているのは、資本主義や国家主導の開発が規定するのとは異なる条件のもと築かれ住まれる都市、という理念である。地域の歴史をめぐる叙述や建物の保存から、写真による場の記録や物品の展示にまでおよぶあらゆる活動は、都市東京と国民国家日本の双方にかかわる開発主義的な旗印とはおよそ折りあわない東京像を盛り立てるものであった。〈国民の政治〉に取って代わったこのあらたな東京像が理想化したのは、都市に暮らす市民が官の許可なく手に入れようとするコモンズである。共通の記憶を呼び起こしたり、慣れ親しんだ風景を改めて評価したりすることは、東京の空間と、その空間に対し住民がもつ権利とをめぐってあらたな価値体系を供していく。ローカルで親しみ深いもの、小さなもの、はかないもの、そして一見些末なものさえもそれ自体に価値が認められ、普遍的な政治概念よりも上位に置かれた。この反モニュメンタリズムによって、日常を中心とする東京が想起しなおされることとなった。

 しかし文化遺産の逆説は、それが親しみ深いものごとに根ざしているにもかかわらず(実際、「heritage」(遺産)という語は「family inheritance」(家産相続)に連関している)、エキゾチックな相貌を帯びて初めて重要性をもつ点にある。社会学者の荻野昌弘が「世界の二重化」と呼んだ通り、あるものを遺産としてあつかうと、観察者の日常生活ともうひとつの日常生活のあいだには溝が生じる。この現象は「博物館学的欲望」と名づけられ、荻野は挑発を込めて「〔ブルジョワジーが抱く〕他者の所有物への欲望」と記した。親しみ深い物品とエキゾチックな物品のあいだの溝は、架橋不能であるとは限らない。文化のグローバル化と大衆による遺産の価格設定のただなかで、人々はしばしば、他人の目を通して地元の環境や伝統を経験するようになった。メディアが遍在する社会にあって、生きられる日常と遺産として尊ばれる日常とは、常に何ものかによって媒介されている。この「世界の二重化」は、共有財産をめぐる理想と、「ブルジョワの欲望」を満たそうと広くおこなわれる財産の商品化とのあいだに、緊張を惹き起こすというわけである。しかしここで、二〇世紀後半の博物館学的な文化が、共同性への希求と文化の商業的搾取が生むジレンマをともにはらんでいると考えてはどうだろうか。つまりこの文化を、公式的な政治の枠外に立つ都市的な市民性をめぐる構想の一部であると同時に、ローカルな経験のマスメディアによる媒介の一部でもあると捉えるとき、私たちは歴史的文脈に即した理解に一歩近づくことができるのではないだろうか。

東京の社会変動のなかの公と私

 本章に続く各章では、東京のヴァナキュラーな景観が再発見されるなか生じた、特定の歴史的な形態や系譜をたどる。序論となる本章では、この再発見の条件を用意したポスト一九六〇年代における三つの社会的・政治的な展開、すなわち民主的な国民と核家族という日本が抱いた双子の理想の褪色、日本の経済発展と世界的な観光産業の成長、そして一九七一年以降に世界で進んだ富の非物質化を素描しよう。これらの大きな変化はいずれも、東京をめぐる物質的な体験と、同地での財産をめぐる政治とを変質させていった。三つの変化があいまって示すのは、土地に対する権利のみならず、誰が都市をつくり、どのように規制し、どのように占拠し、景観中のどの要素に文化的で記憶されるべき価値を認めるかを決めてきた近代的所有権レジームが、終焉を迎えたという事実である。次第にこれに取って代わった、より不安定で投機的な枠組みは、あらゆる意味において伝統のたしかな基礎を最後の一片に至るまで取り去ったが、それと同時に過去を利用するための豊かな土壌を供したのであった。

 一九五〇年代後半から六〇年代にかけては東京をはじめ都市部への人口移動が進み、日本の高度経済成長に対し労働力を供給するとともに、人口重心を農村から都市へと一挙に移した。都市部の新住民はそのほとんどが、古い木造賃貸アパートから出発し、国家政策の一環として郊外に建てられた鉄筋コンクリート造の団地型賃貸マンションを経て、ついに個人所有の核家族むけ郊外一戸建てにたどり着くという、住宅計画研究者の平山洋介が「住まいの「梯子」」と呼んだ標準的な道のりを歩もうとした。この道のりは、そのあいだに挟まるいくつかのステップとともに一九七三年の『朝日新聞』元旦特別号に掲載された双六に描出されている。郊外の団地や戸建て住宅では、社会的・経済的な同質性の高さを特徴とする大量の中流核家族が、同じ家電を同じ年に集めていき、国民的な理想としての繁栄を達成しつつ国内産業の成長に貢献した。

 核家族の形成、持ち家の実現、そして新発売された耐久消費財の買い集めは、高度経済成長期を通じて、日本の都市部における成功した中流家庭の生活を特徴づけた。これらはまた、近代的所有権レジームのうち私的な方の半面を構成しており、住宅政策や都市政策を通じて国家によって許可・促進され、会社資本による建設や融資によって支えられた。この枠組みは、数が多く安定的で、「家庭に繋がれた」、ホワイトカラーの労働者を必要とする。そしてこの枠組み内部の(男性であることが想定された)典型的市民は、市場から、そして核家族の要請を超える様々な共同体の要請から理論上隔離された私的空間を求めた。二〇世紀資本主義の中心地であれば世界中で見られたこのシナリオのなかで、市民は自己の「再生産」、すなわち日々の労働と次世代に投射される社会的地位との「再生産」を支えてくれる妻と子供を、住まいという私的空間に保管したのであった。

 近代的所有権レジームを形づくる公私の要素は、互いを必要としあう一体的な存在である。戦時の天皇制国家が臣民に「滅私奉公」を説いた記憶がいまだ生々しく残るなか、戦後民主主義運動に加わった者たちは、国政への発言権を求めるかたわら自らの私的権利を守ることを目指して戦った。郊外化はこの政治的な精神を空間的に表現している。一九六〇年、日米安保条約への反対運動によって大衆的な市民運動が最高潮に達したとき、哲学者の久野収は、近代的な「市民」(一般的な呼称としては当時新鮮に響いた)が、家庭と職場の分離によって生まれることを指摘した。歴史学者の安丸良夫が述べた通り、「生活者」、すなわち日常生活の送り手あるいは主役も、同様にこの分離から生まれ出た。核家族の家庭のプライバシーに護られつつそのなかで体力を回復する成人男性は、資本主義企業の労働者としてのみならず、〈私的空間の聖域性を保証する政治〉という公共空間を共有する国民として、都市に足を踏み入れていった。一九五〇年代、六〇年代、そして七〇年代を通じて、国家は低利融資というかたちで資金を注ぎ込み、住宅所有者たちの国をつくろうとする。一方で上野千鶴子らが指摘したように、「生活保護主義」、すなわち警察権力や日米同盟の軍事的要請に私的空間の主権を侵させまいとする決意にもとづく、国政上の争点に対する態度は、一九五〇年代後半以降の市民運動の強固な基盤ともなっていった。かくして標準化された核家族と持ち家は、かたや経済成長のため従順な労働力を培養することによって国家を支え、かたや国家の軍事・外交政策に対し国民として民主主義的な抗議をおこなう勢力を支えたのである。

 一九六〇年代、一部のジャーナリストや知識人はいわゆる「マイホーム主義」、つまり男性サラリーマンが職場や居酒屋で育まれる同性同士の絆を投げうって示した、郊外の我が家に対するプチブル的愛着に対し、皮肉な視線を投げかけた。マルクス主義フェミニストも、ジェンダー化された公私空間の分離のうえに成り立つブルジョワ的体制を、最終的に厳しく批判するに至った。しかしこれらの否定的な表象にもかかわらず、多くの新家族は、「住まいの「梯子」」をのぼり都心と郊外とを繋ぐ道のりをたどることで、郊外一戸建てによって保証された私的空間がもつ強い魅力に、第二次世界大戦後の四半世紀を通じて惹かれ続けたのであった。

 一九七〇年代半ばまでに、「マイホーム」の夢はその輝きを失ってしまった。繁栄によって期待は高まるが、スプロール現象によって見返りは小さくなる。一九七一年、「梯子」の中間ステップにあたる団地が数十年来まとってきたモダンな雰囲気を失うなか、日本住宅公団は団地型賃貸住宅の供給数削減に踏み切った。住宅市場は一九七五年までに飽和状態に達する。住宅ローンの額は、ローンが現金払いに取って代わるなか一九七〇年代を通じて指数関数的に膨らみ続けた。しかし人々の手に入った家は都心からほど遠く、結果として通勤・通学は長距離化し、郊外住民は社会的な紐帯を欠いた土地に投げ込まれることとなる。かくして、持ち家を望む都市住まいの国民の数は一九八〇年代に入るまで依然として増え続ける一方で、従来の都市生活モデルをめぐる不満や欠陥が、よりはっきりと感じとられるようになっていった。

 この間、建築界の前衛運動はこれと異なる都市生活モデルの提示にむけ動き出していた。早くも一九六〇年には、東京大学で丹下健三が指導した学生を中心とするメタボリストたちによって、「METABOLISM/1960——都市への提案」と題された宣言が発表され、東京で開かれた世界デザイン会議で頒布された。このメタボリストによる未来都市のスケッチは海外で広く出回り、国内でも一九六〇年代を通じて版を重ねた。丹下の監督下でパビリオンが設計された一九七〇年の大阪万博において、メタボリスト建築家はその構想を披歴する機会を得る。ここにおいて彼らは、住人が一個ないし複数個の居住カプセルを挿入できる高層メガ・ストラクチャーを通じ、未来生活のなかの都市住民を描き出した。メタボリスト建築家の黒川紀章は、メタボリスト都市の仮想住民を「ホモ・モーベンス」(移動する人間)と呼んだ。高まる現代社会の根なし草性を反映して、カプセルの住人は自律的かつ流動的である。この個人主義的な——そして暗に男性主義的な——家庭や地域共同体に縛られない未来市民のイメージは、一九六〇年代の大学キャンパスや政治的な抗議運動で多数を占めた若い男たちの自画像に、たやすく重ねることができた。ハイモダニスト的な文法にのっとるメタボリストの計画は、都市は白紙状態から建て直すことができ、建築家がマスタープランの策定者としてふるまえると想定する。しかし、ヨーロッパのモダニストの都市像とは異なり、メタボリストの都市像は、継続的で、有機的で、不規則な成長を構想の前提にすえていた。かくしてメタボリズムは、これまで欠点としてあつかわれてきた東京の建築環境がもつ混沌とした変容可能性を、強みへと転換したのである。これと同時に、原子化した個人や家庭と、(見えざる建造主体としてそこにある)一枚岩の国家とから成る社会がモデル化された。このモデルにおいて公と私は相補的だが明確に分割され、両者を媒介する空間や機構は存在しない。

 経済地理学者の松原宏によれば、東京における建設の総体的な動向は、一九七四年ごろを境として、郊外での単世帯住宅の水平的スプロールから、都心部でのオフィスビルやマンションの垂直的成長へと移行した。高度経済成長にともなって生じた首都への大規模な人口移動はこのころまでには終息しており、新たな核家族の形成はピークを過ぎ、持ち家の夢はおおかたの新家族にとって現実のものとなっていた。一九七〇年代半ば以降、郊外では建売住宅が注文住宅に取って代わり、不動産会社はイメージによって郊外住宅地を売り出すため広告への投資を増やしていく。この間、コンクリート造のワンルームマンションが二十三区の中心部に現れはじめ、一九八三年までに新規建設の住宅のうち四分の一をワンルームが占めた。東京の開発は会社資本に駆動されて先へ先へと進み、エリート建築家による未来志向の都市設計は、紙上においてのみ生き永らえていった。

 一九七〇年代前半は、急進的政治勢力の敗北と大衆デモの退潮を見た時期にもあたっている。この重要な政治的分水嶺の、東京における象徴的事件のひとつが、一九六九年に起こったとある公共空間からの人々の排除であった。この年、警察は新宿駅西口の地下広場(以下、新宿西口地下広場)からベトナム反戦運動の担い手を一掃したのである(第一章で詳述)。一般に、先進国の都市は一九七〇年代以降、政治的な闘争の場ではなくなったとされている。日本のジャーナリストや知識人は、自国の一九六〇年代をしばしば「政治の季節」と呼び、暗にこれに続く数十年を非政治的な時代だと見なしている。しかしこの解釈は、政治を国政上の争点や普遍的な政治理念の観点から狭く定義した時にのみ妥当しよう。政治を利益の集合的な動員としてひと回り広く解するなら、政治運動は明らかに一九六九年以降も、以前とは場所を変えその急進性を減じつつも、盛り上がり展開し続けていった。

 急進的政治勢力が掲げたユートピア的未来像が一九六〇年代に崩壊し、大衆の動員が失敗に終わったのち、あらたな種類の権利主張が、国民が公共空間に対しておこなう権利主張を超えるかたちで生み出された。日本における市民の動員は、一九六〇年代の国民国家をめぐる政治から一九七〇年代のローカルな生活の質をめぐる争点へ、そして一九七〇年代の外縁がたしかな現場性に立脚する組織的政治から、一九八〇年代のより多様で情緒的な個人的要求を抱えた人々がつくる、フォーマル/インフォーマルを問わないネットワークへと、移行していく。これらの変化はいずれも、空間的かつ物理的なかたちで表出していった。一九六〇年の安保闘争は、日本の議会制民主主義の現場であり象徴である国会議事堂を取り囲んでの、高度に組織化された行進と「ジグザグデモ」という形式をとった。一九六八年の学生運動の指導者たちは、大学の門のような戦略拠点に「解放区」を設けることで、公共空間を奪取しようとした。しかし警察による学生運動の取り締まりと、新宿西口地下広場からの排除によって、大学キャンパスや路上ではこうした公共空間の占拠状態が解消される。一九七〇年代、最も見えやすいかたちでおこなわれた都市住民の動員は、自治体や地域に立脚したグループ(その首唱者はしばしば主婦であった)によるものであり、米軍基地、汚染物質を排出する工場、高層ビルといった、住宅街の生活の質を損なう施設に反対していった。

 これらの環境をめぐる闘争に続いて一九八〇年代に本格化した保存運動は、ローカルな意味を帯びる対象と地域性の表象、その双方をめぐるせめぎ合いの一角を占めていた。一九八〇年代、日本人は政治理念よりも物理的空間のまわりに集うようになった。そこでは国民としてよりも、ある店のひいき客やある景色の愛好者として語ることが好まれ、普遍的権利の主張よりも審美的な選択を通じて自己が打ち出された。特定の場所や記憶の対象を我が物であると主張するとき、その主張はより個人的なものとなる。しかし同時に、単一の争点をめぐって展開された住民運動とは対照的に、それは総体としての都市をめぐる提起と結びついており、ナショナルないしグローバルな広がりのある文化的文脈のなかに置かれていた。

 ナショナルな公共領域と核家族の私的領域という、ユートピア的な希望の空間がともに閉ざされたことによって、そのはざまにあらたな空間の余地が生まれた。公をめぐる大衆政治と私をめぐる親密な現象学とは、地域コミュニティの小さな共有空間のため、ふたつながら動員されていく。直接的政治参加の旗印のもとで取り組まれてきた、路上を手に入れんとする組織的な動きは、社会的・政治的でこそあれそれと同等に美的な立脚点をもち、あらたなかたちで路上を手に入れんとする動きに道を譲った。そして耐久消費財の新商品に体現される、標準化されたモダンで物質的な「生活」の追求は、そこに常に影を落としていた物質主義への疑念とあいまって、日常的な過去の痕跡を再生することにその昇華されたかたちを見出していく。そして結局、ポスト産業時代の大衆社会はオーラを放つ記憶の品と場とを貪欲に掘り起こすことで、歴史保存の文化を、ほんの一世代前までは明るい未来を体現し、今や未来に代わって好ましい過去を想起させる、あのまったく同じ住宅と耐久消費財のもとに回帰させていくのであった。

富と都市間比較

 ジェット機旅行が大衆的な現象となるにつれ、旅行先としてのグローバルな都市間競争は、ローカルな文化的独自性を打ち出そうとする努力を生み出していった。建築保存はこの局面で大きな役割を果たした。ただし歴史性を重視する美意識の高まりは、旅行客の嗜好はもちろんのこと、住民が自身の都市を眺める方法とも絡みあっていた。東京の場合も他の都市と同様、保存運動の条件を整えたのは富と余暇であった。選択と比較をおこなえる贅沢に背中を押され、旅行客がローカルな差異を求めだしたのとまさに同じように、実際的な必要から離れ、自身をとりまく都市の空間や物を美的な観点から眺める贅沢を手にした地元の観衆に依拠して、日常生活の歴史化は進んだのである。

 一九七〇年代後半に日本経済は新段階に入り、首都圏の景観にはっきりと影響をおよぼしていった。一九七六年から八〇年にかけ、国内の製造業では戦後初めて国内純剰余金が発生し、投資を収入が上回った。これを受けた製造業者は、海外投資、研究開発への資金投入、そして土地や株式の投機へとむかっていく。米国からの輸出削減圧力により、生産拠点を海外に移す動きはさらに加速した。この間、国内製造業の重心はマイクロテクノロジーへと移行する。一九八二年までに、世界の半導体企業トップ五社のうち二社が日本企業となり、一九八六年までにトップ三社を占めた。生産拠点の海外移転が進むなか、重工業は国内の都市景観のなかで前より目につきにくい要素となった。東京の住民はスーツや「オフィスレディ」の制服に身を包んで明るく真新しいオフィス街に出勤し、夜になるとネオンサインや電光掲示板に覆われレストランやショップを収容した高層ビルが並ぶ、新宿や渋谷のような西東京のハブたる繁華な商業区域に繰り出した。観光産業、映画、写真などが、この華やいだ消費中心地のイメージを世界に広げるなか、一九七〇年代には公害の代名詞だった東京は、ポスト産業時代の典型都市となっていく。

 一九七〇年代のドル漂流に促された円高によって欧米への旅行は容易になり、戦後日本の海外観光産業が勃興した。年間海外旅行者は一九七二年から七九年にかけて倍増以上の伸びを見せ(一三九万二〇〇〇人から四〇三万八〇〇〇人へ)、一九七九年から八八年にかけてさらにその倍以上に増える(四〇三万八〇〇〇人から八四二万七〇〇〇人へ)。それと同時に一九七〇年代後半から八〇年代前半にかけ、重工業が東京を引き払い都市がより清浄になったことを受けて、東京は海外からの人気旅行先にもなっていった。かくして一九八〇年代の東京の住民は、グローバルな余暇の地図に過去にないかたちで文化的に位置づけられた都市、国内の他地域と同じように海外の他都市と対照される都市で、日々を送ることとなった。国内の一部の評論家がパリやニューヨークを基準に自国の首都について辛辣な比較をおこなう一方、あらたに東京の「アジアらしさ」と呼ばれだした要素——人混み、モニュメンタリティ(記念碑性)の欠如、そしておびただしい数の不規則で無計画な空間——が東京論の人気テーマとなり、これこそが東京の魅力の一部であると目されていく。

富の非物質化

 一九七一年の変動相場制への移行によって、民間の投資家が為替相場での投機に手を出す道が開かれた。この移行は、デジタル化と電子通信の本格化によって市場間の距離が消滅しつつあった時期にちょうど重なっている。一九七〇年代前半、コンピューターネットワークや、新種の金融商品や、計算処理方法の刷新によって、金融は世界大の即時的な投機マシーンへと変貌しつつあった。金融システムは国境を越えて作動するにとどまらず、具体的な有形の商品や生産拠点との必要関係をことごとく断ち切っていった。

 この変化が都市の風景に与えた影響は、多岐にわたった一方で間接的である。富の非物質化によって、すでに顕在化していた世界経済の中核都市から製造業が退出する動きは加速し、金融センターを中心とする都市間の序列が整えられていった。一九九〇年、ニューヨークの最大の輸出品は古紙となる。有形の商品取引よりも、抽象的な取引(古紙となった紙に印刷されていたであろうデータ群)こそが、ニューヨークをいまや世界経済の中核たらしめたのであった。中核的な「グローバル都市」に新設されゆくビルは、ハイテクなオフィスや、マンションや、巨大ホテルを必要とする、グローバルなビジネス・エリートや旅行客に供された。産業時代の施設、とりわけコンテナを用いた輸送技術によって機能を失った港湾施設は、あるいは取り壊され、あるいはレジャー施設に転用されていった。

 東京では、世界経済上のこうした変化が直ちにまざまざと感じとられることはなかった。変化が顕わになるのは、一九八〇年代前半の規制緩和と一九八五年のプラザ合意にもとづく強制的な円高を受けた不動産バブル後のことである。急速な人口の国内移動、軽工業の持続的な成長、そして一九五〇・六〇年代を通じて進められ一九七〇年代に入っても止まらなかった低層建築の建設を経て、総体としての東京はニューヨークのような都市とは異なる条件のもと、脱産業化と投機の時代に足を踏み入れることとなった。一九七〇年代に始まり八〇年代に加速したハイテク化は、東京の一部でしか生じていない。同地の旧い市街は「下町」に生き残った。下町を緩やかに定義すれば、表通りは店舗併用住宅型の商店や作業場に占められ、裏通りには木造賃貸アパートや長屋が並ぶ、伝統的な社会関係や地勢の跡をとどめた商業・産業的な近隣空間、となろう。下町の大部分は一九四五年の空襲で破壊されたものの、密集した住宅が総じて同じかたちで再建され、破壊をまぬがれた戦前の商店や住宅も点在していた。二〇世紀終盤までに多くの下町の通りはいささか寂れたが、進行する高齢化の一方で人口は安定しており、産業時代の機能の一部を保ち続けた。東京の雇用構造統計はこの点を反映している。一九八六年時点で住民の二割強は製造業に従事しており、半数近くの者(四六%)の勤め先は従業員数わずか一~三人の工場であった。

 他の資本主義国の主要都市と同じく、東京はハーヴィー・モロッチが言うところの「成長マシーン」であった。東京の都市計画にたずさわったエリートたちは皆、東京の主要機能は富を生むことだという立場に同意する。しかし東京の場合、この成長を目指す連合のなかで中心的な役割を果たしたのは、国家の経済発展を主導し維持する使命を帯びた中央政府であった。したがって東京は、日本の資本主義の産官合同本部と、国家主導の近代化事業の見本としての役割を兼ねることとなった。国家的な地位と、現存する産業的/プレ産業的な町並みの小ささや脆さとのあいだに生じた明確な対立は、新しい都市と古い都市の遺物との対照性を一層浮き彫りにしていく。

 一九八三年、米国が輸入拡大を求める圧力を強めるなか、中曽根康弘首相は公有資産の民営化、都市再開発への民間投資に対する規制緩和、ならびに「内需拡大」の旗のもとでの国内の新商品消費力の拡充に着手した。一連の政策はまとめて「民活」(「民間活力」の略語)と名づけられた。民活政策は一九八三年七月、中曽根が都心部の容積率を緩和し、高層ビルの建設を許可するよう提起したことにより、東京に影響をおよぼしはじめた。ゾーニングは国よりも地方自治体の権限であったため、提案がすぐに実行されることはなかった。しかし首相発言は、低層住宅・小商店むけの地区を、中高層マンション・商業ビルむけの地区に転換する大規模再開発への見込みを高めることによって、不動産投機に拍車をかけた。不動産投機はそれ自体が強力な非物質化機能を果たしていく。住まい・不動産・地域社会内の地位のあいだの、実体的かつ可視的な繋がりが、投機により切断されていったためである。民活を謳って進められた都市開発政策には、一九四六年以前に建てられた住宅の家賃制限撤廃が他に含まれていたが、これは古い住宅と通常その居住者であった高齢者を狙い撃ちするものであった。一九八四年の前半、他の公営企業とともに国鉄の民営化を進める中曽根は、民営化策の一環として広大な国鉄用地の売却計画を発表する。国鉄は最終的に一九八七年初頭に解体されるが、その間、投機によって国鉄用地の地価は数倍に膨れあがったのであった。

 一九八六年に起草され、翌八七年に決定された第四次全国総合開発計画(四全総)は、経済機能の東京圏への集中を計画し、計画の決定それ自体によって集中をさらに促した。四全総はまた、国際的な金融エリートをなお一層収容すべく首都を改造する必要を打ち出した。この立場は、一九八六年に東京都が策定した長期計画でも繰り返されている。中曽根政権と都の共鳴者は東京の大規模再開発にむけた環境を整えることで、米国を慰撫すると同時に、彼らの目には海外企業の需要によるオフィス面積不足と映った問題を解決し、東京が次世代のグローバル金融センターになるという華々しい成果を生み出そうとしたのであった。

 内需拡大という民活の今ひとつの要素は、消費生活のみならずライフスタイルの変革にかかわる問題であった。ライフスタイルの変革は、地所、建物、そしてその中身にまで影響をおよぼしうる。戦後の経済成長政策の目標が一九七〇年代前半までに達成されるなか、都市部の住民は家に置けるだけの耐久消費財をすでに買ってしまっていた。さらなる消費の伸びは、一九八三年の経済白書が述べた通り、国内の住宅の収容力を上げることによってしか実現できない。国家と資本に駆り立てられたこの議論は、以下のように結論された——住宅が商品の収容先であり、さらに多くの商品を輸入することを国際政治のなかで日本が求められている以上、住宅は建て替えられねばならない。当然ながら、この結論は古い家や所有品に価値を認める立場に対して不利に働き、太平洋の両岸で生じた過剰生産に対処し米国との戦略的関係を保つため、古いものは新しいものに道を譲ることを迫られた。

 一九七一年のドル・ショックと同じく、中曽根民活に続くバブル経済の決定的局面は、米国の金融戦略によってもたらされた。一九八五年九月二二日、ニューヨークのプラザホテルで、いわゆるG5の代表者は、米国の貿易赤字を削減するため円高ドル安を目指す措置に合意した。この会議はのちに、日本経済が二〇年以上を経ていまだ立ち直り切れていない危機を惹き起こすこととなる。日本は大蔵省の施策により、ドル・ショック以来一五年にわたって国際金融市場の影響から守られてきたが、プラザ合意によって、米国が整備したグローバルな為替取引への参加を余儀なくされたのであった。

 ニューヨーク発の声明に対し市場は劇的な反応を見せた。ドル円レートは急落し、一九八七年後半に一九八五年の半値強で落ち着くまで下落を続ける。東京の店頭には、円高によって突如値を下げた高級輸入品がひしめいた。国内製造業への打撃を恐れた日本銀行は、一九八六年から八七年にかけて公定歩合を引き下げ続け、利率は最終的に二・五%にまで下がった。そして米国の圧力のもと、日銀はこの公定歩合をその後二年にわたり維持する。企業も個人も、投機熱に身を投じることで金融緩和に乗じ、株式市場と不動産市場は一挙に成長した。

 都心部の地価は、すでに一九八三年以来、二桁成長を続けていた。一九八六年から八七年にかけての伸び率は三倍に近い。一九七五年のオイル・ショック時の短期的な低迷を除くと、国内の都市部の地価は第二次世界大戦以来上昇を続けており、東京の不動産はあたかも完璧なノーリスクの投資先であるかのように見えた。今や海外企業はオフィス用地を我先に求め、政府は土地利用規制や高さ制限の緩和に動いている。しかし、市場原理にもとづく計算からそう深くない水面下には、日本の特殊性をめぐる数多くの神話のなかでも最も基底的なものが横たわっていた。日本列島はなぜかよそとは異なるので、合理的計算を超えて市場のルールには従わない、という神話である。一九三〇年代に帝国を拡張し満州を確保しようとした者が、日本の人口は列島内で養えないと信じたように、一九八〇年代の日本における多くの投資家は、土地は値上がりを続ける、なぜなら日本は——常套句を用いるなら——「小さな島国」だから、と信じたのであった。

 「有効利用」と「高度利用」という用語は、バブル期の都市部の土地政策に対し、強力なレトリックを提供した。レイコ・ハベエバンスと大野輝之が指摘した通り、官僚、ビジネスリーダー、ジャーナリストらによって広く用いられたにもかかわらず、これらの用語は明確な政策というよりはあいまいに定義された願望を指し示すものだった。建設省は一九八三年の土地政策に関する文書を通じて「高度利用」という用語を広めた。東京駅周辺に広大な商業地区をもつ三菱地所は、一九八八年、「マンハッタン計画」と銘打って六〇棟の超高層ビル建設に主眼を置く再開発計画を発表し、これを「有効利用」の要請に応えるものであるとさかんに宣伝した。当時の過熱する相場環境にあって、三菱地所の計画は明らかに、投機的な事業を都市合理化の一形態に見せかけ、オフィス空間の見込み需要から儲けを得ようとする同社の野心を、公共心として演出しようとする企てであった。一九八六年、地権者の土地利用計画がもつ経済的利点が、借地人の意に反して貸借契約を破棄することの正当化理由として初めて裁判で認められると、「有効利用」という用語は法廷にも姿を現すようになった。法律専門家は公法と私法を混同するものとして判決を批判したが、こうした批判にもかかわらず「有効利用」は司法判断上の実効性ある概念として認められ、一九八〇年代後半には複数の判例に登場した。

 中曽根民活政策の最初の三年にあたる一九八三年から八六年にかけて、都心部の土地の三割が個人から企業の手にわたった。同じ期間に、東京の新築物件に多数を占める構造は木造から鉄筋コンクリート構造に移り、都市の主要部分は日を追って非自然素材で構成されるようになった。そしてまさにこの時期、東京の家は戸建て住宅から集合住宅へと移行していく。

 一九七九年から九五年まで東京都知事の座にあった鈴木俊一は、開発主義的な国家の「成長マシーン」たる首都にとっては完璧な管理人だった。忠実な自民党政治家である鈴木は、戦時下の内務省でキャリアを開始し、革新都知事の美濃部亮吉による波乱の都政の後を受け、都財政の健全化を誓って都知事に就任した。鈴木はその財政手腕に加え、国家的なスペクタクルの演出にかけては豊かな実績を有していた。東京オリンピック開催時には都副知事としてもっぱら事業の監督にあたり、一九六七年から七〇年にかけては大阪万博の事務総長を務めている。都知事としての鈴木の施政も、このような過去の役割の様式に沿うものであった。鈴木都政は、広くあいまいに定義されたキャンペーンのための標語(「マイタウン東京」「東京ルネサンス」「世界都市東京」「東京フロンティア」)と、ナショナルかつグローバルな消費に供されるアイコン建築を生み出す建設事業(批判者はこれを「箱物行政」と呼んだ)とによって特徴づけられる。一九九一年に落成した東京都庁舎や一九九三年に落成した江戸東京博物館、そしてお台場に新設されたビジネス・レジャー施設(当初計画では世界都市博覧会の隣接会場となるはずだったが、世界都市博は一九九五年の鈴木退任後に中止された)は、スペクタクルとモニュメントに彩られた彼の経歴における比類ない達成を表している。地域的なアイデンティティが文化的な価値として芽生えつつあった一九八〇年代だが、鈴木の政治的な将来構想のなかで、それは一国の首都の商品性に寄与する限りにおいてのみ認められたのであった。

地域性の創出

 一九八六年ごろから、鈴木都政が好むスローガンは「マイタウン東京」から「世界都市東京」に移った。都政の関係者が当時気づくことはなかったが、不動産バブルは彼らのまわりで膨らみ続けていた。地価の高さは、オフィス空間に対する海外企業の需要によって説明がつくように見えた。日本がより優れた日本型資本主義によってグローバルな覇権を手にすると広く信じられるなか、鈴木の新スローガンは、東京の不動産に対する需要は無限に伸び続けるという、中央政府の賭けであり鈴木自身の信条でもある認識を反映していた。かくして、東京をその巨大さにもかかわらず市民が愛着を抱きうる対象として思い描かせようとした「マイタウン東京」の約束は、東京は今や旅行客と投資家をグローバルに引き寄せる磁極となり、日本があらたに占めた超大国としての地位を物理的に証明できるという約束によって、取って代わられることとなる。

 こうした東京都の宣伝文句の皮相さにもかかわらず、「マイタウン」と「世界都市」のあいだの緊張は、二〇世紀終盤に東京の文化が直面した現実のジレンマを映し出していた。地域性は、国家に従属したりグローバルな文化市場に規定されたりすることなく、主張することができるのだろうか? 都が設定した東京の課題が国政と切り離せなかったように、ローカルな言説や場も、マスメディア・国の機関・市場に、またもや飲み込まれてしまうかもしれない。ナイーブなものであれ自覚的なものであれ、地域性を擁護する人々自身のレトリックによって。

 フレドリック・ジェイムソンが指摘した通り、ポスト産業社会では文化と経済が融け合う。グローバルな投機的金融と世界最大の産業となりゆく観光産業の成長は、ハイカルチャーにせよローカルチャーにせよ、文化がもはや自律的な領域としては存在しえない状況を生み出していった。ローカルな文化は、資本主義の、そしてナショナルな政治課題のための原料と化した。日本では東京都以外の府県が、いち早く地域性を創出する事業に公的資金を投じ始めた。一九七〇年代には「文化行政」の名のもと府県庁内に専門部局が新設され、地域のアイデンティティの創出や強化に取り組んでいく。旅行客を引き寄せ、生まれ育った土地に対する誇りを高め、住民が役所に対して抱くイメージの親しみを増すことが、その目的であった。

 この流れにあって、ローカルなものはナショナルなものと緊密に結びついていた。中央政府と都道府県・市町村とのあいだの格差是正を唱える知識人は、当時さかんに唱えられた「地方の時代」に支持を与えた。同じレトリックは大平正芳首相によって、「地域の個性」への支援を約束した「田園都市国家構想」キャンペーンに採用される。そしてこの構想は、大平の政策研究会が一九八〇年に発表した報告書において、「文化の時代」という国家の将来構想に吸収されたうえで詳論された。大平のブレインは日本が近代化を完遂したと考え、もはや西洋モデルに寄りかかることのない包括的日本文化の創出を唱えたのである。ローカルな取り組みはかくして、ナショナルな文化の売り出しに切れ目なく組み込まれていった。

 地域の文化にあてられたあらたな光は、このように国家が人為的につくり出したようにも見えうるものであったが、地域の側で取り組みを続ける人々がそう捉えていた気配はない。一九七〇年以降、日本のポスト産業経済に身を置いた個人は、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリのいう「情動にかかわる労働」、すなわち消費者の感情面での体験を形づくるサービスや職業に類される仕事に従事していた。情動にかかわる労働は労働者を、いまだ有形の商品の製造にたずさわる者の方が多かった産業時代に比べ一層緊密に文化的な生産活動へと結びつける。しだいに増えつつある、消費者体験の生産に何かしら関わって働く者たちにとって、地域の個性という発想は、たとえそれが全国に拡散された共通の形式にのっとっていたとしても、コーポレート・アイデンティティと同じようにしっくりとくるものであった。さらに文化行政の担当者は、日常的なものとローカルなものに重きを置く一方でそれらを日本という国をめぐる言説に組み込んでいくという、日本における民間伝承・民芸をめぐる長い知的伝統に依拠したのであった。

 一九八〇年、東京都は「生活文化局」を設置した。これに続いた文化行政の展開は、バブル経済の拡大と同時進行している。不動産投機が資本・行政機能の東京集中を図る中央政府の施策とあいまって惹き起こした危機に対し、東京都がとりうる手段は限られていた。国の政策を変える力をもたず、経済的な潮流に逆行する意志もうすい都庁の官僚はその代わり、地域の文化の「ぬくもり」と「人間味」を育むという、感じのよいレトリックへとむかっていく。

 「下町」は一九八〇年代に入るころ、東京のヴァナキュラーな過去と地域の個性を喚起する場として、さかんに利用されていった。幹線道路沿いのスーパーマーケット、ファミレス、コンビニに支えられたベッドタウンたる東京の新郊外は、店舗併用住宅型の商店と裏通りの木造長屋からなり、安定した居住・建築・共同体という三者のまとまりを体現する下町の町並みとは、著しい対照をなしていた。新郊外の中高年にとっての下町は、より真正でその土地の固有性をそなえた都市像としての訴求力をそなえていた。郊外に生まれ育った若者にとっても、単純にエキゾチックな存在として下町は魅力的であった。ただし全国メディアの影響力によって、ノスタルジックな「下町」認識は、下町に暮らす者か否かを問わず、年齢の垣根を超えて、すんなりと共有されていく。戦前の「庶民劇」の系譜に連なる人気映画やテレビドラマは、労働者や中流家庭の日常生活を理想化し、しばしば下町を舞台に選んだ。長編シリーズとなった『男はつらいよ』(一九六九~九五年)では、渥美清演じる「寅さん」を通じ、下町の団子屋をとりまく親密なご近所付き合いが描かれている。同作品が終了した一九九五年までに、寅さんは国民的な偶像としての地位を占めた。リチャード・トーランスが論じた通り、『男はつらいよ』の巧みな筋書きと会話は、懐古というよりも精妙な風刺として解した方が適切である。しかしその人気はやはり、作品に描かれた家族とまちの暮らしの様式や、そうした暮らしを取り巻く環境に対する懐古に根ざすものであった。東京東端に位置する柴又は、作品の舞台に選ばれたことで、全国の観衆にとっての下町の原型となっていく。

 多くの人々に共有された、この「下町」イメージの再創造によって、特定の地域と東京全体の双方で新たな企画や事業が生み出されていった。公的な保護を受けた建物はごく少ない。しかし自治体・商店会・人気雑誌は「下町」の再興を後押しし、文学名所、昔ながらの品を売る商店の生き残り、さらには古びた市街の雰囲気を醸しだしうるあらゆる要素のまわりに、観光産業が形成されていった。

 かかる状況下で取り組まれた歴史保存によって、バブル時代にはその保持がとりわけ難しく、また支援者がその創出と消費の双方にかかわる価値であるところの地域性は、強化され形を定められていった。こうした方向性は、支援者の取り組みが国家の政策や過去の商品化に対して抵抗・協力いずれの性格を帯びようと変わりない。過去は、東京をはじめ各地であらたなかたちで利用され、差異を生んでは都市の地域的なアイデンティティや魅力が拠って立つエキゾチシズムを創り出すため、そこに存在していた。進歩の記録としてでも、覆しがたい世界の衰勢に対する悲劇的なメメント・モリの戒告としてでもなく、異所として、現代世界のただなかに見出された他者性として、過去は保存されねばならないのであった。

過去の利用と〈役立つ過去〉

 東京の歴史的な過去は、町並みのなかに目に見える刻印をほぼ残していなかったものの、すでに強固な枠組みをそなえていた。それは近代都市・東京の前身、一六〇三年から一八六八年にかけて江戸幕府の所在地であった城下町・江戸である。はやくも一八八〇年代、旧幕臣が「江戸会」を結成し、幕府の最後の日々をめぐる懐古談と記録からなる雑誌を刊行しはじめたころから、江戸はノスタルジックな回帰の地となっていく。二〇世紀前半のノスタルジックな書き手は江戸の文化や文学へと隠遁し、根なし草的で美的に俗悪な近代のアンチテーゼとしてそれらを理想化した。こうした好古的な歴史研究や文学作品上の懐古は、一九七〇年代に「江戸学」として現れた大衆的な文化史の発想源となる。しかしこのころにはすでに、江戸学の担い手のなかに旧幕臣や江戸の文芸サークルに属した者と個人的な繋がりをもつ者はおらず、旧幕臣らの著述も彼らにとってはエキゾチックなものと化していた。

 このエキゾチシズムは戦後世代の民主的かつ大衆主義的な感覚とあいまって、江戸学の関心を、江戸の日常生活におけるさまざまな情景や習慣へとむかわせていった。文学的な伝統とは異なり、この種の要素には物を通じてすぐに近づくことができる。江戸学が一九八〇年代に近代史を取り込んで江戸東京学となるなか、江戸は徐々に、日常生活の空間をめぐるもうひとつの選択肢として観念されるようになっていった。オギュスタン・ベルクが述べた通り、江戸東京学はふたつの考えを強調する。第一に、「東京の空間はどこかしら、近代以降の西洋化によって押しつけられた要素に収斂しきらずに続いてきた」。そして第二に、「東京の空間は単に前近代的であるどころか、明治維新に先立ってポスト近代に特有の性格をそなえ、今もそれを保ち続けている」。一九八〇年代に再創出された江戸のイメージは、狂乱に満ちグローバル化された現代の東京に対する、ユートピア的アンチテーゼとしての役割を果たしたのであった。ただし皮肉なことに、時にこの江戸は、ポスト産業的な消費都市と化した東京の写し鏡としても立ち現れていく。

 近代性の特質たるマスメディアの媒介と、首都と他地域のあいだの絶え間ない往来とによって、あるローカルな過去のイメージは、すぐさま共通のナショナルな過去の一部として思い描かれる。このため江戸・東京の再興は常に、ネイションに栄誉を取り戻す物語の餌食となる危険を抱えていた。しかし東京の過去に対する人々の姿勢には、一九一五年に発表された永井荷風の名作の題を借り「日和下駄ノスタルジア」とも呼ばれる、古い世代の個人的で文学的な懐古の精神が、断固たるローカリズムを特徴として受けつがれていた。過去の文化人たちがしばしば足を運んだ、特定の町や、路地や、古い商店は、作家や作品をネイションの物語の外に置く。これらのローカルな懐古は、イデオロギー的な血と土の融合よりも、個別具体的な諸空間に結びつけられていた。したがってこの種の懐古において、人は過去のなかに栄誉回復への道を見出さねばとの要請に縛られることなく、思索の深みへと自由に沈静することが——そして注意すべきことに、気だるい無用感のなかで自由に懐旧にふけることも——可能となったのであった。

 文学的な想像力にとって、東京はヴァルター・ベンヤミンが言うところの記憶の集積となりえたが、この日常生活に根ざす感受性に対して東京の建築をめぐる物質的な枠組みは不利に働いた。すでに一九二三年と一九四五年の大規模な破壊に先立ち、頻繁な火災は東京が世代を超えて記憶を引き継ぐ建物をたくわえることを妨げていた。表通りの商店は、一九世紀以降は堅牢に建てられたものの、これらの建物が重要な遺産と目されたのは鉄筋コンクリート構造の建物に取って代わられはじめてからのことであり、その後に至っても地価が建物価格を大きく上回ったために保存されることはほぼなかった。空襲を生き延びた建物の多くは、一九六四年の東京オリンピックにむけた再開発のなかで取り壊される。建築基準法とそれに続く自治体レベルでの施策により、一九七〇年代から八〇年代にかけ、二、三階建ての木造建築の都市から鉄筋コンクリート構造の中高層ビルの都市へと東京を改造する取り組みが進められ、昔ながらの町並みは断片的に残るのみとなった。そして残された物の断片性ゆえに、東京の〈役立つ過去〉の範囲や利用方法を、文書記録上の歴史や文学作品の領域から物の痕跡を考究・礼賛することへと広げるには、依然として想像力を働かせる必要があった。ヴァナキュラーな保存運動は東京をめぐる文化政治において、具体性をそなえた歴史的想像力の動員を意味したのである。

 

 本書は、一九六〇年代以降の東京で、ヴァナキュラーな過去の動員に用いられた四つの場——広場、まち、路上、博物館——を検討する。各々の場には、活動の舞台と、東京という都市に対するひとそろいの申立てとが、それぞれ表現されてもいる。第一章では、日常的な東京の由来をめぐる一種の神話として、国民と広場をめぐる物語を記そう。一九六九年に起こった新宿西口地下広場から反戦運動家が排斥されたことは、都市に暮らす市民が政治に参加するのに役立つ拠点としての、東京におけるモニュメンタルな公共空間の終焉を象徴的に示し、新たな抵抗の拠点を求める模索の幕開けを告げた。第二章では、公衆とコモンズをめぐる都市全体の問題から、地域コミュニティの問題へと、空間のスケールを縮める。考察の対象は、古いまちにおける歴史意識と保存運動の成長であり、とりわけ地域コミュニティが過去の素材を用いることであらたに創り出された土地に焦点をあわせる。このコミュニティの創出は、不動産バブルという危機がどのように、都市に暮らすことをめぐるあらたな思考を生み出したのかを示すものであった。また同時に、ある空間のアイデンティティが、話され書かれることによってどの程度まで実体化するのかも明らかとなるだろう。第三章の主役は、「路上観察学会」を結成した学者・芸術家・人気作家らの混成グループである。路上観察学会のメンバーは、さらに小さな過去の刻印を尋ねて東京や他の都市を歩きまわり、都市の町並みをつくった人や自然の手形が押された跡を、しばしば微細かつ空想的なかたちで記録した。東京の歴史保存に取り組んだ人々のなかで、不断の上書きという日常的な東京の性格を最も重視したグループが彼らであった。その美的な洞察には、ヴァルター・ベンヤミンら、都市の破片をめぐる理論家を思わせるものがあり、選び出された観察対象はファウンド・アートとの比較に私たちを誘う。しかし彼らは、理論的あるいは芸術的な作品の創造よりも、まち歩き・撮影・名づけの実践に力を注いだ。手法を真似るのはたやすく、そのエキセントリックで超現実的なスタイルにもかかわらず、路上観察は流行りの運動となっていく。第四章では、日常生活をめぐる歴史展示に目をむけ、バブル時代の建築であり、あらたに見出された東京の歴史性のアイコンでもある江戸東京博物館を含む、博物館展示を論じる。この章では、商品流通の回路から取り出され過去を物語るため用いられた、生き延びた破片の軌跡を、〈現在の東京〉に対置される生活世界としての〈東京の過去〉の再建とあわせてたどる。江戸東京博物館をはじめ一九八〇年代に企画された日常生活をめぐる博物館や展示は、東京における博物館や記憶の場の機能が全面的に変貌する端緒であったことが、のちに判明することとなる。個人的な経験や懐古と改めて結びつけられたあらたな博物館学の相貌は、一九九〇年代の公立博物館の企画や民間のテーマパークにおいて一層明確になっていく。その政治的な含意の全容は、二一世紀初頭の一〇年間を通じ、ようやく現れはじめたところである。

 四つの場はそれぞれ、都市的な財産と、住民がそれを手に入れようとする際の根拠とをめぐる問題群に結びついている。広場とコモンズをめぐる理念の歴史は、近代的所有権レジームの境界を、空間的かつ法的に確かめようとする都市住民の姿を明らかにする。まちと路地が物理的に体現する地域コミュニティの連続性は、集団的に所有される財産(限定されたコモンズ)という問題を提起する。路上の破片や見出された対象に体現された、何かを〈素人仕事〉的に組み立て、または流用を通じ手中に収める行為は、物をつくったり印をつけたりすることで定まる財産という観念を明示する。そして博物館を拠点とする歴史保存は、商業流通から切り離され集団的な相続財産に転換された財産の倉庫を生み出す(なお博物館はそれ自体が記念行為であると同時に公共財のアイコン的な形態でもある)。これら四つの場はあいまって、空間や物体のなかの財産の形態をめぐるマトリックスを構成する——それはすなわち、すべての人々に属するもの、共にその地に暮らすことをもって特定の人々に属するもの、自然からそれをつくりだした人々に属するもの、そして公定された相続財産に属するものである。

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著者略歴

  1. J.サンド

    ジョージタウン大学歴史学部教授

  2. 池田真歩

    北海学園大学法学部政治学科講師

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