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『東京ヴァナキュラー——モニュメントなき都市の歴史と記憶』(試し読み)

「日本語版への前書き」

 この短い本を書くのには、長い時間がかかった。その過程で本書の内容は、自叙的な記録から人類学へ、さらには歴史学へと、変わっていった。

 一九八〇年代半ばに東京大学で建築史を学んでいたころ、本郷キャンパスからほど近い谷中に家を借り、そこで始まったばかりのローカルな歴史保存運動にかかわるようになった。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』(以下、『谷根千』)の編集人たちは、どんなガイドブックに記されたものよりもはるかに豊かで意義深い「東京」へと、私を導く案内人となってくれた。そのころの私は、いつか谷中での生活体験を本にし、再開発に立ちむかう古いまちと、そこでの私自身の立ち位置とを記そうと思っていた。

 一九八八年、私は本をまとめることなく、谷中を去ってニューヨークに移った。東京のパブリック・メモリーをめぐる人類学を書く、という考えが、江戸東京博物館が一九九三年に開館したあと浮かんできた。私は同館についての論文を執筆し、米国のいくつかの学術雑誌に投稿した。この原稿は数回にわたって査読を受け、リジェクトもされた。何人かの査読者からは、江戸東京博物館に対してけんか腰に見えるというコメントを受けた。査読者たちは正しかった。私自身が、地域の保存運動家としての感情を抱き続けていたのだ。運動の担い手にとって過去は今も生きており、私の目には、江戸東京博物館がその過去を埋葬してしまったように映っていた。原稿を書き、修正する過程で必要となったのは、客観的な距離をとって東京の過去の再興と再創出を評価するため、かつての自分という憑き物を落とすことだった。その過程で、江戸東京フォーラムのメンバー、東京都生活文化局のスタッフ、そして江戸東京博物館の研究者や展示企画者は、辛抱強く私の批判に耳を傾け、史資料を惜しみなく提供してくれた。同じころ陣内秀信氏は、イタリアでの研究の日々や、どうして東京研究へとむかったのかについて、時間を割いて語ってくれた。藤森照信氏もまた、今和次郎の考現学や、彼自身の路上観察学へのかかわりを語ることに、時間をあててくれた。

 長年他の研究に取り組んだのち、私は巡り巡ってこれらの経験に立ち戻ることにした。バブルはすでにはじけ、日本のいわゆる「失われた一〇年」は「失われた二〇年」となり、しかし東京は止むことなく変化し続けていた。目に見える過去の形跡が消えゆくなか、文化遺産という概念のパブリックな重みは、かえって増し続けているように思われた。都市の文化遺産を新しい方法で考察するため、東京は理想的な手がかりを供してくれるのではないかという気が、私にはしてきた。「モニュメントなき遺産」というのが、その方法である。こうしたことに思い至るまでに経った時間は、一九八〇年代に学生として目撃した成り行きを、過去形で、歴史として語る必要を生じさせるのに十分な長さだった。

 遺産は今日どの社会にとっても極めて重要だと、私は考えている。しかし、そのよくある使われ方や語られ方に対しては懐疑的だ。文化遺産を作り出し、選び取り、保護し、そして忘れ去るプロセスにそなわっている、正解や決着のない性格を、私たちはしっかりと掴まなければならない。今日の私たちが遺産と呼ぶものすべての背後には、気づかれることなく消えていった他の物がある。逆に、今日の私たちが人間による手入れや創造性の痕跡を見出せる身の回りの品々は、どれも潜在的には未来の遺産のささやかな一角を占めている。スーザン・バック=モースはヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を論じるなかで、私たちが「廃棄された大衆文化の物質的な産品」を「過去の世代のユートピア的な希望と、それが裏切られたことに対するモニュメント」として認識すべきだと主張している。社会は果てなき取捨選択のプロセスを営んでおり、そのプロセスには私たち皆が参加している。物を保存したいという衝動にはどこかユートピア的なところがあるが、このユートピア的理念が常に明るいものだと決めてかからないよう、気を付けなければならない。どの、または誰のユートピアが実現され、誰のユートピアが裏切られていくのかをめぐっては、途方もない不平等が横たわっているのだから。

 本書では東京のなかの出来事や空間に焦点をあわせたため、これをひとつの「東京論」として読むことも可能だろう。しかし私は、東京にしかないユニークな特質を明らかにするためというよりも、今日いたるところにある私たちの都市の状況を、そして私たちが築いてきた過去との関係のあり方を探るために、この本を書いた。言い換えるなら、私たちはどうやってあらゆる種類の都市空間、とりわけごくありふれた、時には意外な空間のなかに、そこにしかないユニークな特質を見出すのかということである。

 二〇一三年に本書の原著が出版されて以来、東京では多くのことが起こった。ここでは本書の各章にかかわるいくつかの出来事を手短に振り返り、当時と今の私自身の思考について、少々考えを巡らせてみたい。新型コロナウイルスが流行するまで、いわゆるインバウンド需要に応える観光産業は、すさまじい速さで年々成長していった。二〇一三年のトリップアドバイザーの調査で、東京は「最も満足度の高い観光都市」に選ばれている。谷根千地域は、かつて同地を特徴づけた古い建築が日を追ってその数を減らしていったにもかかわらず、国内外の双方で過熱する観光がもたらすオーバーツーリズム問題に直面することとなった。一方そのころ東京都は、木造住宅密集地域の解消方針と、沿道にいくつかの歴史的な建物が建つ地域の道路拡幅計画を打ち出した。かつて水面下に潜んでいた諸矛盾は、ここに姿を現したわけである。しかし、『谷根千』のあと、同地ではあらたなまちづくり団体が複数結成され、あらたな形の運動が生み出されてきた。地域住民グループは、文化庁による伝統的建造物群保存地区としての選定も視野に入れて、区役所とねばり強い交渉を重ね、拡幅計画を撤廃させ、谷根千地域の特質に配慮した地区計画をかけていくことで合意した。同地で歴史保存に取り組む人々は、まちのアイデンティティ構築をめぐるこの土地の長い歴史のおかげで、こうした経験なしに他地域で「まちづくり」に取り組む人々よりも、これらの矛盾を乗り越えていくための手立てをそなえている。谷根千地域の観光問題は、半ばは『谷根千』があまりに成功し過ぎたことのあらわれである。しかし、真に住民に根ざした同地の「まちづくり」がもつ、持続的な強さもまた、『谷根千』の成功が生み出したものなのだ。

 二〇一四年には、本書の第三章で扱う路上観察学会の発起人として重要な役を演じた赤瀬川原平が死去した。彼に会う機会はついぞなかったが、あまりうまくは運ばなかった電話での会話を、一度したことならある。そのころ私の知人が路上観察の原典たる『超芸術トマソン』を英訳し、私たちは刊行記念シンポジウムのため、赤瀬川氏を米国に招くことも計画していた。ひとつだけ、刊行前に残る問題があった。米国生まれの野球選手で、赤瀬川氏が東京の路上にある無用の長物を命名するにあたりその名を拝借したゲーリー・トマソンについて、英語版でどう扱うかということである。トマソン氏がどこにいるかを知る人はいなかった。でも、もし彼がいきなり現れて、出版社に抗議したらどうなるだろう? 結局これは英語の綴りをめぐる問題だと、私たちは判断した。本名通り「Thomasson」と綴るべきだろうか、それとも書中の「トマソン」は「Tomason」とローマ字で表記すべきだろうか? 私は作者に意見を求めることにした。しかし電話をかけてわかったのは、年をとって昔より角の取れた赤瀬川氏は、今も路上の風変りな出っ張りたちを写真に収め続けてはいたものの、「トマソン」概念や、同概念によるぱっとしなかった野球選手の神聖化がもつ、エッジが効き風刺に富んだウイットを、もはや覚えていないということだった。トマソン氏が気を悪くするのではと心配した彼は、「トマソン」という語を丸ごと削ってはどうかと提案したのである。しかし訳者が指摘した通り、「トマソン」はほぼ全ページにわたって登場するのだった。出版社は結局、本名通りに綴ることに決めた。トマソン氏を見つけ出すことはついになかったが、私は訳書の後書きに、彼にむけて公開書簡を書いた。もし彼が後書きを読んだなら、赤瀬川氏に悪意はなかったことを、わかってくれるように願っている。

 『超芸術トマソン』の英語版は、「Thomasson」をめぐるウェブサイトやソーシャルメディア上の同好会を、数多く生み出した。私は日本・米国・中国で、路上観察学を学生に教えてきた。路上観察学は、学生たちが都市を自分なりのやり方で再発見するための、素晴らしい手段である。留学生たちは、路上観察がもたらす機会が、総じて欧米よりもアジアの都市で豊かだということに気が付いた。これは悠久の「アジア的都市性」などといったものよりも、多くのアジアの都市にその爪痕を残した、急速で不規則な開発という現実を反映しているのだと、私は考えている。赤瀬川原平のトマソン採集と路上観察学は、この無秩序な開発の結果を前向きに眺めるための、一風変わった道具を与えてくれたのだった。私たちはこのことを、好機と見なすべきである——路上観察学は、遺産の範囲を押し広げてくれたのだ。ゲーリー・トマソン自身もまた、無形の文化財と見なされるべきだろう。

 江戸東京博物館は、第四章で論じるように、古典的なバブル時代のプロジェクトだった。バブル崩壊は、同館の学芸員が削減された予算のなかでやりくりせねばならなくなったことを意味した。この制約によって、学芸員たちは一層創造的になったのではないかと思う。本書に記した常設展示の一部は改訂を経たが、大半は変更されずにそのまま残っている。私は今でも同館の建築をひどいものだと思っているが、そのなかにはいくつかの素晴らしい展示がおさめられている。今の私の目には、国立歴史民俗博物館や国立民族学博物館といった他の大型博物館に比べ、江戸東京博物館の元の展示は「愛ゆえの仕事」であるように映る。その愛とは、同館設立の主唱者だった小木新造が深く抱き、他の相談役の研究者にも分けもたれていた、江戸東京という都市に対する愛だった。本書を執筆した当時の私は、同館が誕生した経緯と、展示のなかのいくつかの選択と捨象に対して、批判的な見解をとっていた。しかし今振り返るに、自身の都市に対する誇りは、博物館にとってあながち悪い立脚点ではないだろう。

 読者のなかには、この本が一九六九年の新宿駅から話を始めることに驚く方がいるかもしれない。この着想は、一九六九年は都市論にとっての転換点だったという、前田愛の指摘から得たものである。他の章もそうだが、第一章はそれ単独で読んでもらうことが可能だ。ただし他の章とあわせて読むと、本書を通貫する真の主題が、懐古というよりも、市民がどのようにして都市空間を手に入れようとするのかという問題だということが、第一章によってはっきり示されるだろう。私は、一九六九年は転換点だったという前田の指摘を、何かがこの年に失われ、他のやり方で取り戻されなければならなくなったと解釈した。文化遺産は、そうしたやり方のうちのひとつだったのである。ただしもちろん、新宿西口地下広場の占拠に近い出来事は、その後もいくつか生じている。二〇一一年にウォール街で始まり世界に広がった占拠運動は、新宿での占拠がしばらくは功を奏した一因である、平和主義的アナキズムの強みと弱みを、幾分似たかたちで示すものだった。占拠運動はまた、たとえひと時であろうと、主要な公共空間を手に入れてコモンズ化することが、公共の言説を変えていくため引き続き重要であることを示しもした。

 本書の原著が二〇一三年に刊行された当時、東京は二〇二〇年のオリンピック開催地に選ばれたところだった。日本語版の刊行準備が終わりにさしかかっている今、東京オリンピックの命運はまだ決していない。本書の主張のひとつは、かつて日本はじめ各国で感情を揺り動かす力をもったナショナルなモニュメンタリズムは、時を経るうち、日常的な空間や物に対するローカルな情緒によって取って代わられた、というものである。しかし、ナショナルなモニュメンタリズムは、決して消え去ってなどいない。オリンピックは、ナショナルなモニュメンタリズムが国家や首都において復活する、典型的な瞬間である。このことが確かになったのは、建築家のザハ・ハディッドが手がけた新国立競技場の設計案がコンペで最優秀作品に選ばれ、それが発表された時だった。巨大な宇宙船のようなハディッドの競技場は、世界各地の都市に建っている。審査委員会が、今なお世界都市としての東京の地位を証明しなければとでもいうように、このようなモニュメントを望んだことは、妙に古くさい感じがする。ただ、発表の当時ワシントンDCにいて、議論を遠くから眺めていた私が思ったのは、別にそれでもいいじゃないか、ということだった。もし他の都市があの宇宙船をもっていて、東京もそれを欲しいなら、手に入れさせればいい。その宇宙船はほどなく、ちょうどスカイツリーがそうだったように、東京の広漠とした日常性のなかに飲み込まれていくだろう、と。しかし、これはローカルな視点を欠いた遠い観点からの判断であった。その後、東京に来てハディッドの競技場案に反対する団体の会合に参加した時、私の目に入って来たのは、神宮外苑という地域の日常的な文脈だった。東京ではいつも不足している木々、路上から見たときの建築規模(ハディッドの競技場案はいつも俯瞰図によって示され、路上からの眺めは不可視化されている)、戦後、空襲で焼野原となった同地で雨露をしのいでいたころからの、住民にとっての思い出。建設予定地はまた、都心では残り少ない、地表から富士山を望める場所のひとつでもあった。『谷根千』から参加した人々を含むこの団体は、国立競技場の跡地に何も建てず、「富士見原っぱ」とするよう提案した。その案は一層「東京らしい」ものに、私には思えた。もしどうしてもモニュメントが要るのなら、結局のところ、東京にとって富士山以上に優れたモニュメントがかつてあっただろうか?

 根気よくきめ細かな翻訳作業によって、本書の精密な邦訳を実現してくれた池田真歩氏と、この企画を舵取りしてくれた編集担当の高橋直樹氏と伊藤健太氏に、深く感謝する。私は原著を、『谷根千』の編集人だった森まゆみ氏、仰木ひろみ氏、山崎範子氏に捧げた。その献辞を、ここでも繰り返したいと思う。身の回りの「解釈可能な物たち」のために、彼女たちが成し遂げてきたことによって、彼女たちに対する私の敬愛の念は、日々更新され続けている。

 

二〇二一年二月

           ジョルダン・サンド

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著者略歴

  1. J.サンド

    ジョージタウン大学歴史学部教授

  2. 池田真歩

    北海学園大学法学部政治学科講師

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