有元典文「パフォーマンスとしての辞典:返事を待ちながら」
心理学はまだ若い。1879年、ドイツの大学に最初の心理学実験室がおかれたとき[1]を起点とすれば、2019年の今年で140周年になる。心理学は学問として若いのだから、「こうあるべき」と型にはまるのはまだ早い。と言いつつも心理学教室の扉をくぐってきた新たな心理学徒には、つい心理学の行儀作法(論文作法、心理統計など)を教えてしまう。しかし、それは園芸における栽培の知識・技術と同じことだ。その知識・技能を用いて、何を・どう育て・どんな活用に供するのかは、ほんとうは、全くもって園芸家に任されている。
「質的心理学」という言葉の私にとっての語感は、若くフレッシュで現場的、即興的で冒険的、挑戦的なものだ。だから辞典の項目執筆の依頼を受けたとき、思い切り冒険的で挑戦的に書こうと考えた。既存の栽培の知識・技術を使って、見たことのない植物を育て、未来の利用者の活用に向けて差し出せたらよい、と。
辞典・事典といえば、「悩める若者がそこ以外に行き先がないという理由で海に向かう」ことに似た、意味の終着点だ。そんなつもりで辞典を執筆するのはツラい。そこに誰かの探していた答えが、真実が、意味そのものが書かれていなければならないからだ。かくいう私も若かりし日に、立派な事典[2]に一項目執筆させていただいたが、答えやら真実だのを盛り込むことがツラかったし、とんがったことを書いて先輩諸氏にお叱りを受けるのも怖かったし、そんなわけでこの項目はいまふり返ってもツラい。
辞典とは、そこで意味が説明され、権威づけられ、固定される道具だ。その反意語が「詩」だ。辞典が終着点なら、詩はそこから意味が始まる始発点だ。詩は詩そのものとしては未完成で、読み手との対話として完成していくものだからだ。こんな「テクストの意味の弁証法」のような、普通の心理学辞典に載っていないことまで網羅してるのが『質的心理学辞典』だ。
テクストの意味とは、作者によってあらかじめテクストの背後に隠された静態的なものではなく、読むという行為によって生じる引用どうしの接触や絡み合いにおいて惹き起こされ、またほかのテクストとの相互作用において生成される、力動的なものとしてとらえられる。
(「テクスト」松島恵介『質的心理学辞典』p.214)
今回、神をも畏れぬことに「学習」「デザイン」という超大物を含む9項目を執筆する機会を頂戴した。人が神を畏れるのは「答えや真実を告げる」という神の御業を真似る不敬のためだ。私はここから始まる対話のきっかけとして、学習やデザインの詩を自分の言葉で書きたかった。辞典は意味の終着点だけではなく、意味をめぐる対話の始発点にもなれるはずだ。「静態的」なものから「力動的」なもの(松島)、つまり辞典という「物質」を「パフォーマンス[3]」へと転換させられるはずだ。
昔は辞典など書いてしまったら、偉い人からのお叱りをふるえて待っていた。いまはだれかがかまってくれるのを心待ちにしている。かつての自分に言うつもりで若い方に伝えよう。ビビらずに思いっきり自分の詩を書くことだ。モノローグよりどんな形でもダイアローグの方がずっとよい。残念ながら、私の項目への返事はまだ来ない。だからこのウェブというスピーディでワールドワイドなメディアのはじっこで叫んでみる。この辞典は問いの終わりに位置するのではなく、問いという共同のパフォーマンスのはじまりだと。
辞典という物質をパフォーマンスに変換するには、いろいろな技術があるだろう。手軽なのは昔なじみの「輪読会」だ。伝統的に、辞典は輪読会での文献の理解に答えを出すために用いられてきたが、きょうを限りにこの辞典は違う。この辞典自体が輪読の対象なのだ。
ある日のゼミで「行為」(高木光太郎、p.101)の項目について、2名のインプロバイザー(即興演劇家)、へちゃっぷりんとおかもとまゆを招きインプロ[4]を交えて検討した。「個々の行為はより大きな社会文化的なシステムに埋め込まれ、それに制約あるいは方向づけられる」(高木)という「行為の社会構成」について、インプロバイザーたちは実際のインプロ(即興劇)の舞台での経験から、その身体ですでに深く理解していることがわかった。そこから問いとパフォーマンスの波紋が広がっていき、止まっていた辞典の言葉がひらかれた。
物質をパフォーマンスに変換してみよう。私の提案するこの辞典の活用方法を一言でいうとこうなる。辞典項目の「対話型鑑賞」だ。止まった作品(物質)が人びとの間の熱に変わり動き出す。古くさい辞典のパフォーマンスにはおさらばだ。例えば、「文献を読む助けに項目の説明を真に受ける」「先生に言われて項目の理解に努める」「意味に関して権威にすがる」などなど。
今回この辞典をひらき、どうパフォーマティブに活用できるか考えるために、1098項目を全部通読してみた。まず敬服したのはこれら語彙の撰出作業だ。この辞典の価値は多彩で現代的なインデックスにあると思った。これらを用いて多様な現代の実践に取りかかることができる。当事者との「対話」の端緒にしてもよいし、違う立場の者たちが「同じものを見る」ための手がかりにしてもよい。
ちょっと言いにくいが、だからどれがそうとは言わないが、意味の固定の機能しかないような「雨が降ると地面が濡れる」[5]式の項目も少なくない。それだって「ディベート」の素材にはなり得る。権威を詩に変換する遊びは昔からあっただろう。項目の対象となる実践家と一緒に、当該項目をもっと洗練させる「編集会議」をしてもよいだろう。先述のゼミでのインプロバイザーとの対話のように、実際に体を動かしたり「劇化」するのもおもしろいだろう。主体的、対話的に理解を深めるなら、仲間とともに項目に基づく「ショートショート」を書いたり、項目の「CM動画」を作成したりしてもよい。個人の頭で理解することは、理解という実践のごく一部に過ぎない。人と共同で「作品」をつくりあげる、という理解のかたちもある。むしろ日常の仕事では、理解は具体的なパフォーマンスの形態をとることのほうが一般的だ。
通読してみて、「雨が降ると地面が濡れる」式の説明ではなく、これは「雨に関する詩」だ、と私が勝手に直観したものを挙げておく。こんな風に「セットリスト」を提案して共有する遊びもあるかもしれない。
雨に関する詩:
「エポケー」(植田嘉好子、p.30)
「感情労働」(戸田有一、p.62)
「客観主義」(森直久、p.70)
「行為」(高木光太郎、p.101)
「実践」(石黒広昭、p.134)
「成人教育」(青山征彦、p.177)
「生徒指導」(松嶋秀明、p.181)
「接面」(鯨岡峻、p.183)
「発達」(浜田寿美男、p.249)
「導かれた参加」(當眞千賀子、p.300)
「歴史性」(香川秀太、p.325)
最後にお願いがひとつ。私は果し状(ほんとうは恋文)を待ちわびている。文筆業は独り言を言っているのではなく、話し相手を求めている。誰かが返事をしてくれることで、自分の独り言が、二人の対話の最初のターンに変わるその時を待っている。私の書いた9項目「学習」(p.45)、「学習環境」(p.46)、「可視/不可視」(p.47)、「個体主義パラダイム」(p.112)、「社会的分散認知」(p.147)、「状況」(p.156)、「状況的学習論」(p.156)、「星座」(p.174)、「デザイン」(p.214)、に、リプライがもらえたら望外の喜びだ。私の好物はパフォーマンスなので、項目に曲をつけて歌っていただいたり、演じていただいたり、ダンス[6]なんかしていただけたら、かなり喜ぶにちがいない(文末に拙稿「学習」の項目の全文あり)。
さあ質的心理学辞典をひらこう! 辞典の頁のなかで物質としてピクリとも動かない言葉を、私たちの間に産まれる共同の熱で解き放ちたい。私の執筆項目は、全部が全部、とんでもないこと言ってるから見逃さずちゃんと怒った方がいい。曰く、
「学習とは学習を可視化する実践」
「状況とは認知を図とした時の地として、理論構成上導入される、認知の文脈としての構成概念」
「デザインは、デザインとその構成するリアリティの弁証法という運動体」
こんな勝手なことを言わせっぱなしにしておいていいのだろうか!
お返事待っています。
有元典文 (2018) 「学習」『質的心理学辞典』(p.45)
【参考文献】
[1]サトウタツヤ (2018) 「ヴント」『質的心理学辞典』(p.25)でも触れられている。
[2]有元典文 (2005) 「状況的認知」人工知能学会(編)『人工知能学事典』共立出版
[3]香川秀太・有元典文・茂呂雄二(編) (2019) 『パフォーマンス心理学入門:共生と発達のアート』新曜社
[4]有元典文 (2017) 「教育において殻を破り自分を広げるべきは誰か?:いっしょに生きる技術としての発達の最近接領域」『女子体育』59(6・7), 12-15.
[5]町田のとある駐車場に「雨が降ると地面が濡れます」と書いてある。それを見るたびに「知ってるw」と呟いてしまう。
[6]The “Dance Your Ph.D”. Contest(自分の博論を踊ろうコンテスト)作品一覧
[編集部より]
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有元典文・岡部大介 (2013) 『デザインド・リアリティ[増補版]:集合的達成の心理学』北樹出版