MENU

新社会学研究

論文投稿と査読のホントのところ①:加点法と減点法の齟齬問題の周辺(査読ア太郎/2016年第1号掲載)

1 本連載の特徴――三つの方針:リアリティ重視・相互行為に着目・社会学志向  

 この連載では、時代性をふまえ、かつ、本誌の使命に対応した「論文投稿学」を展開していきたい。

 具体的には、以下の三つの方針にしたがって、社会学を行うことの豊かさに導かれるスタイルの「若手社会学者支援」の形を模索していきたい。

 まず、第一の方針は、連載タイトルにあるとおり「実際の論文投稿の状況と査読の状況にフィットした論文投稿学とする」という方針である。すなわち、「制度設計」や「制度理念」に拘泥せず、実際に「投稿」としてなされていることや実際に「査読」としてなされていることに照準していきたい。

 ついで、第二の方針は、「論文投稿と査読をひとつのフィールドとみなし、そこにおいて投稿者と査読者と編集委員(会)とが、三つどもえの相互行為をしている・複数アクター参与モデル・をベースにして考える」という方針である。具体的には「投稿者は、名宛て人である投稿者向けではなく、オーバーヒアラーである同僚査読者Bを意識した、査読者Aによる評語が返ってきている可能性に留意せよ」というような議論を多数提供していきたい。

 さいごに、第三の方針は、「参与者が、経済合理的ではなく、社会学的に価値合理的に行為する可能性に留意し、自らも社会学的な分析を志向した論文投稿学とする」という方針である。たとえば、査読者像としては、単に査読システム内的義務を遂行することだけを志向した査読者ではなく、研究者ギルドとしての学会(学界)のメンバーとして、いかに査読という活動をも社会学の発展に利用できるかという、査読にともなう社会問題の検討それ自身を、自らの社会学と社会学界の発展につなげようという関心をもつ査読者を想定しながら書いていきたい。

 更にいえば、編集委員の目からみれば、「投稿論文の改訂」には役立たなそうな「壮大な改訂案」を、かなりの手間暇を掛けて、査読コメントとして書いてくる「査読者」がときどき存在するが、そのような「査読者」の価値合理性を把握できるような形で分析と議論をしていきたい。すなわち、そのような「査読者」が身を挺して表現している研究者像、すなわち、「研究上の関心を焚きつけられたテーマに関しては、はた迷惑なほど、むやみに詳しく調べてしまう研究者的人間像」を、むげには否定できないからだ。

 言い方を変えよう。つまりは、「研究支援プロセス」の「細分化」と「制度化」と「標準化」と「効率化」の観点からは、「例外的」で「逸脱的」な事例についても、その「思わざる効果」や「潜在機能」を社会学的に考える方向で、「投稿」および「査読」というものを位置付け、考えていきたいと思っているのである。

 

2 投稿と査読の複数アクター参与モデルというアイディア

 上記の三方針のうち、二番目の「複数アクター参与モデル」をベースにして考えるという部分については、想定される「モデル」に幅があることが予想され、その幅の広さに基づく理解の困難性も予想されるので、少し詳しい説明が必要であろう。したがって、方針提示に続く本節では、本連載が採用している「投稿と査読の複数アクター参与モデル」の表示と説明を行うことにしたい。

 方針2に記したように、投稿と査読のフィールドは、投稿者と査読者、査読者と編集委員会、編集委員会と投稿者、の三種類の相互行為を包含したフィールドである。ここから、(連載の一回目と二回目に分けて掲載するが、)表1「投稿と査読の複数アクター参与モデル――査読者から見た場合」、表2「投稿と査読の複数アクター参与モデル――投稿者から見た場合」、および、表3「投稿と査読の複数アクター参与モデル――編集委員会から見た場合」の三つの表で考えることにしたい。本稿では、連載の一回目として、表1のみを先行的に呈示し、その利用価値を「加点法的査読と減点法的査読の齟齬」という問題にからめて解説することにしよう。

 

3 考察に入る前に

 表1に基づいた議論を始めるまえに、この節での議論の前提を二点確認しておこう。第一点目は、その議論の実証性に関してであり、第二点目は、査読システムの多様性との関連性に関してである。

 まず、第一点目の「議論の実証性」に関してから述べよう。

 連載子は、投稿と査読に関して、実証的な研究をする必要性を認めるものであるが、投稿・編集プロセスにおいては、どの段階にも非公開に留め置くことが適当かもしれない対象が存在しており、具体的な内容を共有する形での実証的な研究はなかなかに困難である。

 したがって、本連載では、原則として実証的な資料提示は行わない。とはいえ、同人誌の連載記事として成立する最低限の「経験的事実との対応性」は確保したい、と考えている。

 ついで、第二点目の「査読システムの多様性との関連性」についてのべよう。

 日本の社会学関連論文に関する学術雑誌は多く、それぞれの雑誌が採用している査読システムは多様である。たとえば、『社会学評論』のように、編集委員会メンバーと査読者が、ほぼ完全に分離されているシステムもあれば、『ソシオロジ』のように、編集委員会と担当査読者が(全体集合と部分集合の違いはあるが)一〇〇%重なっているシステムもある。もちろん、その中間的なシステムとして、『〇〇論集』のように、編集委員会外の査読者と編集委員会メンバーである査読者が一人ずつ入って、二人の担当査読者集団として査読を行うシステムもある。

 また、査読者の人称性に関しても多様性があり、複数査読者が違った見解を述べていたとしても、それを調整せず投稿者に返す査読システムもあれば、ぎゃくに、複数査読にもかかわらず、総合的な査読コメントを作成し、架空の統合的人格による査読コメントのみが投稿者に戻されるシステムもある。これらを、別々に論じるのは煩瑣だ。したがって、各読者が関わる投稿・査読システムに関しての理解が促進されるよう、必要に応じて示す、一部例示方式で進めることにしたい。すなわち、『ソシオロジ』のような片側的ブラインドシステムの場合には、編集委員会側には、投稿者の個人的背景までわかる場合があるので、教育的コメントを付けやすい場合がある、というような言及の仕方で扱うことにしよう。

 

4 減点法と加点法の齟齬問題――原理的考察と査読時トラブルの解釈

 表1の中身の各項目は、いつでも有意味というわけではない。いろいろな予想において、その一部分が有意味になるだけである。したがって、本節では、投稿時の最重要局面である「一回目の査読結果への対応」場面に集中して、表1の各項目をベースに考えるとどのような展望が得られるかに集中して、この表の価値を訴えて行きたい。

 「一回目の査読結果への対応」は決定的に重要である。齋藤圭介(2012)が明らかにしたように、『社会学評論』では、投稿論文のほぼ半分は「一回目の査読結果」で「D判定」となり、審査プロセスを終了することになるが、「一回目の査読結果」が、「A判定」や「B判定」となることはほとんどなく、D判定にならなかった投稿論文の残りのほとんどは「C判定」である。つまりは、最終的に掲載に至る論文(四分の一から三分の一程度)についていえば、そのほとんどが最初の査読結果がC判定である、ということなのである。ということは、「C判定」からどのように判定を上げていくか、が掲載に至る戦略の重要ポイントだということになる。

 ところで、査読プロセスにおける論文評価の基本的な方針には二種類の対立的な方針がありうる。「減点法」と「加点法」である。すなわち、査読プロセスにおいて諸チェックポイントがすべてクリアされていることを掲載の条件とするような場合(「減点法」:減点ゼロが目標)と、諸チェックポイントにおける評価の総和が十分に大きいことが掲載の条件であるような場合(「加点法」:総得点の大きさが目標)があるのである。もちろん、この二つの原則の組み合わせの場合もあるのだが、いずれにしろ、掲載原理が、「減点法」なのか、「加点法」なのか、によるトラブルは、査読において、頻発しているように見える。

 もっともよくあるトラブルは、「再査読で新規の修正ポイントを指示された」という投稿者側からの不満である。類型的にいって、これは、投稿者が「減点法」的理解をしていたのに、査読者が「加点法」的理解をしている場合に生じやすいトラブルである。「一回目査読」で指摘された項目の全てに対応したのに、「二回目査読」で新規の修正ポイントを指摘されたのでは、いったいいつになったら掲載される原稿になるのか見通しがつかない、という投稿者側の嘆きは、もっともな嘆きである。しかし、査読者側としては、総合点が水準からみて不足しているので、審査を継続しようとした場合には、そのようにコメントすることになってしまうのである。

 

5 減点法と加点法の齟齬問題に対する表1からの考察

 じつは、上記の齟齬には、表1をもとにして考えるとわかる「構造的背景」が存在しているように思われる。連載子がみるに、一般的に、雑誌の投稿と査読においては、投稿者は減点法的理解に傾きやすい性向があると思われる。つまり、投稿者は、掲載に至ることを目標として投稿している。この前提を元にして考えると、もし、一回目の査読コメントにおいて、自らの論文の至らないところに関する査読者からの指摘があれば、当然にその指摘された欠点がなくなるよう努力するとともに、その努力の結果が、掲載に結びつくであろうことを期待するだろう。すなわち、減点法的にふるまう基本的性向が、投稿者には存在することになる。

 これに対し、以下では、査読者側の基本的性向を検討してみよう。

 査読者が最初に行う作業が、投稿論文を通読した上での総合評価であるとするのなら(しばしばそのように言われている)、その作業においては、当該論文が掲載に値する論文であるか否かを、究極のところ、加点法的に、論文のオリジナリティや、論文内在的な意義の大きさについての判断として行っていることだろう。そういう意味では、加点法的にふるまう基本的性向が、査読者には存在していることになる。

 にもかかわらず、「一回目の査読」においては、修正ポイントの羅列がしばしばなされるのである。つまり「減点法的査読コメント」が記されてしまうのである。  その理由の半分ぐらいは、システム的強制の結果であるといえよう。ほとんどすべての社会学系査読誌において、査読者の回答用紙のフォーマットは、「チェックポイント別の評価」を義務付ける形式になっているからだ。しかし、残りの半分は、以下の三つの事情があってのことのように思われる。

 まず、第一の事情は、表1に※1でマークしておいたように、査読者が編集委員会向けに、自らの判断の適切性を表示する必要があることに由来する。つまり、「C判定」を説明するのに、「加点法」的記述ではなく、「減点法」的記述をする方が説明が容易だからである。

 第二の事情は、表1に※2でマークしておいたように、査読者が編集委員会向けに、自らが得た知的刺激を占有的に利用するつもりがないことを表示する性向があることに由来する。すなわち、投稿論文を読むことによって得られた知的成果について、その「占有を疑われないレベルで利益還元的姿勢を取っていることの提示」が必要なのであって、けれども、積極的な利益還元的姿勢は、立場の押しつけとも捉えられかねず、そのようにならないようにするためには、コメントの採否についての判断は、投稿者にゆだねる形にせざるを得ない。すなわち、「加点法」的記述は、参考意見として書かれざるを得ず、結局「減点法」的に書かれた必須修正意見の方が目立ってしまう、ということが起きているのではないだろうか。このことは、表1の※3にも関連する。研究者コミュニティの相互扶助・相互刺激文化のなかにくるみ込むことが、利益占有疑惑を払拭することになるのだ。

 この節の後半での主張については、かなり難しいので、より詳しい説明を、次節で行っていくことにしたい。

 

6 過剰な教育的助言の背景としての研究者文化とその変容についての考察  

 3節の前半で述べたように、投稿・査読過程を実証的に論ずるのは難しい。しかし、使える「経験的事実」がないわけではない。たとえば、筑波大学・東京工業大学・中央大学の各大学を渡り歩いた今野浩が書いているような、公開されている「裏事情的知識」は活用可能であろう。たとえば、今野は、「ベテラン教授」が、学問的に「有利」である理由として、「ジャーナルの編集委員やレフェリーをつとめて、最新情報を手に入れる」(今野 2013:76)ことができるからである、と書いている。一面の真理を射ているといえよう。さらに「レフェリーが著者に対して(ほとんど無関係な)自分の論文を、引用文献リストに加えるよう要求する」(今野 2013:22)こともある、とも書いている。ここに書かれていることは、それが倫理的に問題がある行為であるかどうかは別にして、少なくとも、論文投稿と査読のフィールドが、相互行為的フィールドであるということ、しかも、互助的文化が発露している予定調和的なフィールドであるというよりは、研究者の個人的業績の競争に関わるネゴシエーションと闘争のフィールドとなっていることを表しているだろう。

 もう少し穏当な例を、挙げることもできる。たとえば、自治医科大の半澤節子は、日本語論文の査読ではそんなことはないが、と断りつつ、(英語雑誌の査読委員として閲読をした論文内の)「引用文献に刺激を受けたときには、その文献をダウンロードして読むことも多い。こうしたことは査読者自身の研究者としての発展にとって大いにプラスになる」(半澤 2015: 681)と述べている。これらの「事実」からどのような推論が可能だろうか。表1はじつは、その推論の成果なのだが、少しなぞりながら、述べて行きたい。

 まず考えなければならないのは、多くの場合無償でなされる査読において、査読者がどのような動機付けを持って大量の労力を要する査読を行っているのか、という点である。たてまえ的に「研究者ギルドへの忠誠の証として」というだけでない部分に言及しようとすると、上述の諸証言を活用していかざるをえないだろう。つまり、「査読者自身…中略…にとって大いにプラスになる」(半澤 2015: 681)という利益と見合いで労力負担が乗り越えられているとも思われるのである。けれども、ここに気をつけなければならない問題が生じることになる。

 敏感な読者はお気づきだろうが、査読が、査読者の知的活動の一部になってしまう場合、投稿から掲載までの期間があまりに長い場合には、あるいは、投稿がリジェクトされてしまった場合には、査読者が刺激を受けた結果として出してしまう成果の方が、元の査読論文が公表されるよりも前になってしまうというような微妙な問題が、生じる。

 痛くない腹を探られたくはない、と多くの査読者は思う、と思う。自分の業績につながる発想は、刺激をもとにしていたとしても、自立して自分自身で育んだものなのであって、横取りしたものではない、そう主張したくなる査読者はかなりの比率になるのではないだろうか。とすると、そういう査読者は、表1の※3のような対応を、投稿者に対して積極的にとることになるのではないだろうか。すなわち、出し惜しみの雰囲気なしに、助言を大量に与えて、できれば、なんとか、査読をパスして投稿者には論文掲載にまで進んでもらいたい、という相互扶助文化的態度をとるようになるのではないだろうか。また、そのような投稿者への対応は、※2のように、編集委員会向けには、利益占有疑念を払拭する態度であることにもなるだろう。

 もちろん、実際に、「流用疑惑・占有疑惑」を避けることが意識にあがっている場合は少ないだろう。けれども、振る舞いのバランスとして、自分が利益を受けた対象(投稿者)に、受けた利益以上の支援を返すことで、社会的に妥当な振る舞いをしている、という実感を得ようとしている、そういう分析が可能な査読者なら、かなりの比率でいるのではないだろうか。研究者コミュニティというものの成り立ちとして、「情けは他人のためならず」的な、相互扶助・相互刺激的な習慣がもともとある可能性は十分にある。つまり、そういう「惜しみなく与える研究者」は、研究者文化的には標準的な研究者である可能性があるのだ。けれども、その古典的な文化的振る舞いが、個人の業績を次第に厳密に評価するようになってきた現代においても従来どおりに維持可能かどうかは、別の問題である。そういう、個別評価的な傾向が強まった社会にふさわしい形で、学会の慣習や制度を変えていかなければならないかも知れないのである。具体的には、ダブルブラインド制の査読体制において、上述の「相互扶助・相互刺激」文化がどのような適応をしていくべきか、は未解決の問題である可能性があるのである。つまりは、社会学として論文投稿学を考えて行くべき内容がここにあるのである。

 

7 まとめ

 本稿では、連載「論文投稿と査読のホントのところ」の第一回として、この連載の目指すところの特徴を三点(リアリティ重視・相互行為に着目・社会学志向)に分けて確認し、その後、表1を活用しながら、二つの主張を行った。

 第一の主張は、「減点法」と「加点法」の齟齬が査読プロセスではおきやすい、という主張であった。この主張の含意を、投稿者への助言の形で書くならば、「拙速に減点法を前提とした改訂をするな」ということになろう。社会学は社会についての総合的学問なので、たとえ、「教育社会学」や「環境社会学」のような連字符社会学の世界が自立的傾向を強めていたとしても、他の学問領域ほどには、領域的細分化は進んでいない。とするのならば、つねに総合学としての構えの大きさを意識するべきである。つまりは「加点法」的魅力の増進に意を払うべきである。そういう助言につながり得るような形で、査読における齟齬のメカニズム的解明を行った。

 同じ内容の別バージョン表現になるが、この第一の主張の含意を、査読者への助言の形で書くならば、「投稿者を困惑させないように、つねに論文全体の魅力向上こそが大事であることが、査読文全体から分かるように評言は書くべきだ」ということになろう。編集委員会向けとしては、現在のチェックリストの作り方が、「社会学」論文のチェックリストとして適切かどうか、「減点法」を強く含意してしまっていないか、再点検が必要だ、ということになろう。

 第二の主張では、前半では、教育的助言が、査読においてなされるのには、相互扶助的な研究者文化的背景が想定されるが、その文化的態度のナイーブな実践には、業績の個人別評価の厳密化の流れの中で、流用疑惑を招きかねないリスキーな側面があることを主張した。後半では、そのリスキーな側面への対応として、新しい投稿・査読文化の創成が必要となるかも知れないこと、を指摘した。  この第二の主張の含意を、投稿者への助言の形で書くのならば、(本文ではそこまで展開できなかったが)「・アイディアの先行性・の証拠をどうしても残しておきたいのなら、学会発表や要旨集への記載の形で、とにかく公的空間に記録を残すようにしておくこと」、「アイディアの流用と見える事態に遭遇した場合でも、先方が相互扶助・相互刺激型の研究者文化理解をしている可能性があるので、何が起きているかの現象理解を一致させることにそもそも困難が生じるかもしれないこと」、この後者の事態が起きる背景となっている「研究者相互扶助モデル」にくみしたくない場合には、「自ら新規の研究会を組織することも選択肢に入れること」となろう。自分でクローズドな研究会を組織すれば、顔も知らない他者にアイディアを流用されることはなくなるはずだ。また、この第二の主張を査読者への助言の形にするのならば、「査読プロセス中の知的刺激が自分の研究の発展につながった場合には、のちのちトラブルになるリスクがあることに留意しておくこと」ということになるだろう。編集委員会および社会学者向けに特化した書き方をするのなら「論文投稿と査読のプロセスは、すべからく知識社会学のネタであるとどうじに、政治社会学のネタでもある」となるだろう。なかなかに大変なことではあるが、これが「論文投稿と査読のホントのところ」なのである。

 

[注]

[1]本連載が、ここで「時代性をふまえ」という主張をするのは、それなりの蓄積が、投稿研究および査読研究においてなされてきているからである。実際の蓄積については、齋藤(2012)須田ほか(2013)、戸ヶ里・中山(2013)池岡(2015)等をあげることができる。

[2]査読評価は、一般的に、A、B、C、D、Xの五種類の記号でなされ、それぞれA=掲載可(しばしば誤字・脱字の訂正を含む)、B=微修正(再査読なし、とする雑誌と、再査読あり、とする雑誌がある)、C=大幅修正、D=掲載不可、X=テーマ的に不適合、というような意味で用いられるのが普通である。

[3]「チェックポイント」は、『社会学評論』の場合は、「審査のめやす」と呼ばれており「推論の論理性/資料の扱い方/先行研究・既存学説の理解/独創的な着眼および技法/文章表現/問題提起および結論の明確性/参考文献および参照の適切性」の七項目となっている。『家族社会学研究』では、「1.タイトルの適切さ、2.課題設定の妥当性、3.結論の明確さ、4.先行研究のレビュー、5.資料の適切さ、6.分析方法の適切さ、7.論理性、8.独創性、9.参考文献の参照の適切さ、10.用語や表現の適正さ・統一性、11.図表の枚数および提示方法、12.抄録(英文・和文)の適切さ、13.執筆要項との適合性、14.研究倫理上の問題」の全十四項目となっている。これらの「チェックポイント」は、「十分/不十分/該当せず」の三区分で評価される場合と、「大変良い/まあ良い/問題あり/非該当」の四区分で評価される場合がある。もちろん、三区分の場合の方が、減点法的運用になってしまう傾向があるといえよう。

[4]この部分、必ずしも、投稿論文が優れていることに由来する「知的成果」とは限らない。多くの査読者は査読をしているときに、おぼろげだった論敵が、具体的な形となって、いま、この査読論文中に現れてきている、と感じることがあるはずだ。そのように「仮想敵」役割を投稿論文がになってくれることも、知的刺激ということができるだろう。

 

[文献]

藤村正之、二〇〇七、「編集後記」『社会学評論』五七(四):奥付頁。

半澤節子、二〇一五、「英文誌と和文誌の査読の経験から」『看護研究』四八(七):六七六―六八二。

池岡義孝、二〇一五、「『家族社会学研究』の査読システムと査読ガイドライン」『看護研究』四八(七):七〇〇―七〇四。

樫田美雄、二〇一二、「論文投稿学・序論――投稿誌の選定から査読対応までの支援学の試み」『保健医療社会学論集』二三(一):三―一五。

今野浩、二〇一三、『ヒラノ教授の論文必勝法――教科書が教えてくれない裏事情』中央公論新社。

齋藤圭介、二〇一二、「データからみる『社会学評論』――投稿動向と査読動向を中心に」『社会学評論編集委員会報告』五―二六。

佐藤健二、二〇一四、『論文の書きかた』弘文堂。

須田木綿子・鎮目真人・西野理子・樫田美雄編、平岡公一・武川正吾・山田昌弘・黒田浩一郎監修、二〇一三、『研究道――学的探求の道案内』東信堂。

戸ヶ里泰典・中山直子、二〇一三、「投稿者と査読者・編集委員のコミュニケーションの向上――論文査読セミナーを終えて グループワークの記録」『日本健康教育学会誌』二一(二):一七七―一八六。

 


[新社会学研究 2016年 第1号――目次]

巻頭エッセイ 社会学と芸術 小川博司

[特集]〈いのち〉の社会学
特集〈いのち〉の社会学によせて 三浦耕吉郎
〈尊厳ある生〉のなかでの看取りとは?――極私的社会学・序 三浦耕吉郎
〈生〉と〈身〉をゆだね、あずけること
    ――「認知症」とされる人と私の〈かわし合い〉のフィールドワークから 出口泰靖
いのちとおうち――野宿者支援・運動の現場への手紙 山北輝裕
死に支えられた幸福の国と「曖昧な死」への意味づけ
    ――ブータンから東日本大震災への応答 金菱 清

[連載]
くまじろーのシネマ社会学① 「ふりかえるべき」戦争と「かつてあった」戦争 好井裕明
音楽する映画① 『アーティスト』――映画と音楽の蜜月はトーキー映画によって始まったのか 小川博司
論文投稿と査読のホントのところ① 加点法と減点法の齟齬問題の周辺 査読ア太郎
ネコタロウに聞け! 社会学者スーパースター列伝① ラザースフェルド 栗田宣義

[公募特集]生きづらさとはいったい何なのか
公募特集によせて 好井裕明
「性的冒険主義」を生きる
    ――若年ゲイ男性のライフストーリーにみる男らしさ規範と性 大島 岳
「カツラ」から「ウィッグ」へ
    ――パッシングの意味転換によって解消される「生きづらさ」 吉村さやか
子づれシングル女性の生きづらさ
    ――奈良市ひとり親家庭等実態調査より 神原文子

[連載]
ビデオで調査をする方法①
ビデオで調査することのメリットとデメリット
    ――「リアリティ喚起力の大きさ」と「常識に汚染されるリスク」 樫田美雄
ファッション&パッション①『non-no』から始めよう 栗田宣義
同人書評
ネコタロウに聞け! 外伝篇① ディストピア 栗田宣義

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 査読 ア太郎

    大学教員。元予備校講師.査読経験は10誌以上,編集経験は5誌以上.若手支援/研究支援の立場から査読や編集に関する発言を続けている。

関連書籍

閉じる