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信田さよ子+温又柔「『母』と『国家』」

前編:「母」は国家における中間管理職である

 

「国語」と「ママ語」

 信田先生、今日はお忙しいところ、どうもありがとうございます。私は、先生のお仕事にずっと関心をもってきたのですが、実際にお目にかかるのは今日がはじめてなので、じつはかなり緊張しています。けれど今回、先生の『増補新版 ザ・ママの研究』(以下『ザ・ママの研究』)を拝読して、これはもうぜひいろいろとお話しさせていただきたいと願っておりました。勉強不足の点も多々あるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

信田 ありがとうございます。私も、この本と同時期に刊行された温さんの『「国語」から旅立って』を読ませていただいて、立ち位置は異なりますが、私の問題意識と重なるところを感じています。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。

 さっそくですが、私もずっと「ママ」を研究してきたようなところがあるんです。私の場合、三歳になる少し前に、父親の仕事の都合で台湾から日本にやってきました。子どもの頃の私はとても真面目な「優等生」タイプで、先生の言うことや学校で教わることに対して、ほとんど疑ったことがありませんでした。そういう意味では、学校で学ぶこと、学校で通じることこそが、世の中の標準的な価値観とかスタンダードだと思い込んでいたんですね。それは私にとって「国語」の世界、いわゆる日本語の世界そのものだったのです。父も母も日本語はそれほど達者ではなくて、家の中では中国語と台湾語と、それに加えて母の話す片言の日本語が飛び交っていました。でも一歩外に出れば、耳に届くのはほとんどが日本語で、私が話すのも日本語だけです。だから、家の中で聞こえてくる日本語をだんだんと「雑音」としてみなすようになってゆきました。たぶん私はそうやって、知らず知らずのうちに「日本人化」していったのです。自分で自分を縛っていったというか……窮屈さが少しずつ積み重なっていったというか。けれどある時期に、自分が「国語」的なものにあまりにも従順だったことに気づきました。そして自分を長年縛っていたそんな「国語」に対抗するものとして、自分がそれまで「雑音」扱いしていた台湾人である両親、特に母親の話す中国語や台湾語、カタコトの日本語を、自分の創作の糧(みなもと?)にしたいと決意したのです。つまり私の作家としての私のはじまりは、こんなふうに、「国語」に対抗する「母語」、わたしは「ママ語」とも呼んでいますが――それを獲得しようとするプロセスとともにあったんです。

信田 非常に興味深いですね。

 恐れ入ります。そうして「母語」を「ママ語」と呼ぶことで、自分の中では、私自身を肯定し直すチャンスというかきっかけにはできたんですけれども、わたしは、そういった「母語」あるいは「ママ語」をただただ礼賛するつもりはありませんでした。けれども、小説を読んでくださった少なくない方から、温さんはお母さんがよかったからまっすぐ生きてこられたんだね、とよく言われてしまいます(笑)。

信田 そうなんですね。そういうことを言うのは男性かしら?

 ああ、そうかもしれませんね。あなたがすくすく育ったのはお母さんのおかげなんだね、みたいな。それはある意味、まちがってはいません。でも私は、学校の「国語」の時間に習う日本語だけが「正しい」と思い込むのはつまらない。カタコトの日本語に中国語や台湾語がまざりあうちゃんぽんの言葉もなかなか面白いんだよってことを書きたかっただけで、母親そのものを讃えたかったわけではありません。ましてや、自分の母を越えて、厳しい父的な秩序の対極にあるような、子どものことを何もかもを許してくれる母的なものを賛美したいのではないのです。そのことを改めてちゃんと言わなくては、と思っていたタイミングで、信田先生の『ザ・ママの研究』を読ませていただいて。まだうまく言えないのですが、自分の中にあるそんな問題意識と、この本で先生が書かれている内容とがすっと繋がったんですね。

 「食」と母なるもの

信田 今の温さんのお話をお聞きしながらふたつのことを考えていました。一つはフェミニズムですね。フェミニズムは男の言葉を女に取り戻す、ということをずっと言ってきたわけです。そのことともう一つ、私はカウンセリングを通して、摂食障害の方とたくさんお会いしてるのですが、摂食障害というのは、「お母さん」の作った料理の否定なんですよね。

 ああ、たしかにそうですね。

信田 詩人の伊藤比呂美さんは、私の作った料理を食べろ、しかも日本の米を食べろという母からの強制は、日本の国を強制することなんだと喝破した。また逆に、食べないことは母の愛の拒否であるのだと。そしてそのことこそが、摂食障害の苦しみそのものなんだと、伊藤さんはご自身の経験から、明確に言語化されています。もう一つ、言葉についてですが、日本の中にも何種類もの言葉があって、温さんのおっしゃるママ語みたいなものもあると思うんですね。方言と、標準語の問題もそうです。そして、さきほども申し上げた、ジェンダーによるとされる、差別的な言語の差異。いわゆる、論理的な言葉は男のものであり、感情言語が女のものである。というものですね。去年亡くなった橋本治さんはそこを逆転させたというか、逆手にとって作品を作ったわけですけれど、私たちは「国語」を共有していると思いながら、じつはその中にも非常に多様な層があるんだということ、温さんの今回のご本、そして今の温さんのお話をお聞きしていて、改めてそう感じました。そして、やはりここに摂食障害の問題が大きく絡んでくると思うんです。少し自意識過剰かもしれませんが、私たちのやってきた仕事、つまり摂食障害や母子問題はメインストリームから外れたものとしてずっと扱われてきたんです。けれども、80年代の後半くらいから、摂食障害は母と娘の問題なんだとようやく考えられるようになってきた。しかしそんな中で私が感じてきたのは、その母が、自分の体から産まれた娘の言葉をまったく理解できないんだということでした。例えば、1994年に岡崎京子さんという漫画家が『リバーズ・エッジ』(宝島社)という作品を刊行されました。私はそのときちょうど摂食障害の娘さんをもつお母さんたちのグループを担当していて、お母さんたちみなさんに、これは参考になるからぜひ読んでください、とお願いしたことがあるんです。

 お母さんたちはなんと?

信田 みんな揃って、何がなんだかさっぱりわかりません、と言うのです。このとき、私はものすごいショックだったんですよね。母と娘って同じ釜の飯を食いながら、これほどまでに言葉も通じないものなのか、と。この方たちにも青春の苦しみとかがあったはずだと思うのですが、ともかくわからないし、ただただ気持ちが悪い、と。骸骨とか出てくるし……とか(笑)

 なんと……。言葉がまったく通じないその感じは、かなりショックですね。また、さきほどの先生の、言葉と食事ということで思い出したのですが、私は小学生のとき、給食の時間がとても憂鬱でした。作ってくれた方々に申し訳なくて、あまりこんなこと言いたくないのですが、給食として出てくるお料理がどうしてもおいしいと感じられなくて、いつも無理やり食べるか、残していいときはほとんど残していました。これはいままで人に話したことがあまりないのですけれども。

信田 給食以外の食事についてはどうだったんですか? 

 考えてみると、子どもの頃は私、食べることがそんなに楽しくなかった気がします。台湾に帰ったときも、父や母は久々の台湾料理をおいしそうに食べるのですが、私はなんとなく抵抗がありました。当時の自分は、日本でも台湾でも本当に決まったものしか食べられなかったんです。けれど母はやはりおおらかというかいい加減なところがあって、私が食べたいものばかり作ってくれる。母が言うには、学校で給食を食べられないんだからうちではせめて好きなの食べさせたいと言って。白ご飯とウィンナーだけとか、そのせいで私、背が伸びなかった……

信田 それはあんまり関係なさそう(笑)。

 ですね(笑)。最近になってこのことを思い出したのは、ここのところ、外国人労働者についていろいろな問題が顕在化していますが、彼らの子どもたちが給食に戸惑っているというニュースを見たからなんです。労働者であるお父さんお母さんは一日中工場とかで働いていて、子どもたちはいきなり公立の小学校、つまり日本語だらけの環境に行くことになるわけですが、言葉がまずわからない。そのうえ、給食の時間に見たこともない料理に出会う。とくに納豆とかには相当動揺させられてしまうみたいで。

信田 それを無理やり食べさせられるの?

 私が見たニュースではそうでした。残さず食べなさいって先生に強く言われて、それを拒むことができなくて苦しかった、と言っていたと思います。そのせいで、ただえさえ言葉がわからなくて授業についてゆけないし生活になじめないし、学校に行くのがどんどん嫌になる……納豆だって、これおいしいからちょっと食べてみなよ、って楽しい雰囲気ですすめられたら、きっと全然ちがうと思うんです。でも、とにかく食べなさい、と一方的に言われるんでしょうね。それでその子どもたちのことを考えているうちに、私も給食の時間は憂鬱だったと思い出しました。私は、みんなで同じものを一斉にいただきますと言って制限時間内に全部残さず食べなければならないあの雰囲気が苦手だったのかもなって。それが中学まで続いて、高校生になったらお弁当になり、大学では学食とかで自分で食べたいものを選べるようになるので、いつのまにか悩まずに済むようになったのですが。給食で出される肉じゃがとか、ほんとうにつらかったですね。クラス全員がおいしいおいしいと言っておかわりしたがる中、自分だけはそういう気持ちになれない。みんなと同じ気持ちになっていない自分がなんだか的外れの存在にも思えるんです。

信田 選べないでずっと一方的に与えられる、まあ温さんのおっしゃるように管理ですよね。学校と給食というダブルの管理と強制。そのきつさを感じていても、小学生では、まだうまくそのことを表現できませんよね。けれど違和感って何よりからだに出るし、とくに食事、食べることに影響します。

 ええ、けれど小学生のころはそこまでわかってはいなくて、なぜかわからないけれど、ともかく食べられない。一方で、イレギュラーな授業とか行事、たとえば社会科見学とか遠足のときは、お弁当持参で行きますよね。私は母の作ったものなら食べられるんです。普段の給食は食べれないくせに、お弁当を食べるときは平気。そのギャップを友達に感づかれるのはすごく恥ずかしいことだとも思っていました。

信田 なるほどね。

 『「国語」から旅立って』は、日本的な習慣とか言葉にスッと馴染めていた、日本や日本語に私自身がスムーズに同化していった経緯について書いた本でもあるのですが、身体的な部分でのそういう小さな抵抗みたいなのものは、もしかすると自分の記憶の外にあったのかな、と、摂食障害のお話を伺って、初めて思いました。

信田 摂食障害というのは、もちろん本人が食べられなくなったり、逆に食べ過ぎたり、食べて吐いてしまうとか、症状としてはそういったことがあるのですが、一番最初はというと、家族と一緒にご飯を食べられなくなるんです。

 なるほど。

信田 家族とともに食卓を囲めなくなって、自分の部屋に持って行って食べたりとか、自分はほかの家族が食べるのを見ているとか、あるいは家族に食べさせたりとか。母親にカツ丼とか天丼とかをせっせと食べさせて、お母さんだけ太ってしまうとかね。けれど自分はとにかく食べないんです。親が作ったものを食べることができなくなる。このことはやはり、非常に象徴的なことですよね。ときに、温さんはお母さんの作ったお弁当は大丈夫だったわけですけれど、なにかへの拒否というか抵抗というのは、ことに食べ物に、食事の仕方に出てくるというところは共通していると思います。とくに給食の時間は無言の圧力を感じる、と子どもたちはよく言いますよね。個別性を尊重する先生もいると思うけれど、きっとそういうことも超えたなにかしらの強制力、雰囲気みたいなものがあるんだと思います。温さんは、ほかに学校で苦手なことはなかったんですか?

 体育ですかね(笑)

信田 やはり身体的なことですよね。それにしても、体育は絶対いやですよね。もう私もムリ。体育のある日は、ほんとうに朝から憂鬱だった。

 行進とか、炎天下の中でひたすら運動会の練習をさせられて。

信田 とくに小学校の体育、音楽はいまだに軍国主義を体現していますからね。

 給食もそれに近いところがあるもかもしれませんよね。でも軍国主義なんて子どもは知らないから抵抗のしようもなくて、ついていけない自分のほうが悪いのだと思っていました。

信田 なるほど。子どもは自分が悪いのだと、そう思わされがちですね。話は少し戻りますが、食と無言の強制力的なもの、あるいは食と母なるものというのは、給食の場合とまた少し位相が異なりますけれども、伊藤比呂美さんの言葉にあるように、要は母親の作るご飯って、子どもにとっては具体的な、ものすごい圧力にもなる。自分が作ったものを食べてくれないということが、母にとってはかなりショッキングなわけですから。

 娘に傷つけられる。

信田 そういうことですね。中には耐え難くて、母のお弁当は持っていくものの、中身をそっくり捨ててしまう子もいる。けれど、母親には秘密にしているわけです。そしてある日、捨てているところを学校の先生にみつかって、母親に連絡が行く。もう母親はそれを知って、わなわなと震えるわけです。

 ああ……。娘に自分の作った料理を食べさせることによって、自分が必要とされる、あるいは娘との一体感を強める。自分の一部としての娘に対して自分が栄養分を与えているという、以前娘がお腹の中にいたことを繰り返したいみたいな部分もあるのかな。

信田 飼育でしょうかね。

 でもそうして飼育した結果、娘が刃向かってくるとえらく動揺してしまう。そういえば、わたしも幼稚園のとき、母の作ったお弁当が一口も食べられなかったことがありました。お昼になって、先生の号令に従って、いただきます、といっせいに蓋を開ける。今思えば、その雰囲気に気圧されたというのか、とにかく全然食欲が湧かなくて、結局一口も食べられずに、そのまま持って帰ったんです。丸ごと残ったままのお弁当を見て、母は怒り狂いました。信田先生のおっしゃるとおり、ものすごくショックだったのだと思います。母にしてみれば、日本の習慣に従って一生懸命作ったもののはずだし、それを丸ごと拒絶されたのだから。それでわなわなと震えながら、なんで食べない? とか、何が気に入らないの? とか次々と聞いてくるわけですが、私は説明ができない。自分でもどうしてなのかわからなかったんですよね。ただ、泣き叫ぶ母を見て、自分が食べなかったせいで母はものすごく傷ついたんだなということだけは理解できました。

信田 私は、摂食障害というのは、「食べたくない」ということではなくて、「食べられない」ということだと考えています。自分のために作られたそれを拒否していると同時に、ものすごい罪悪感を持っている。それを親がわかってくれずに攻撃してくると、さらにもっとつらくなる。そういうどうしようもない悪循環がある。

 なるほど。要するに、後ろめたさとのたたかいみたいになってくるんでしょうか。母を傷つけないために頑張って食べなくてはいけないと思って、結局、自分の感情をどんどんないがしろにしてしまう。私の場合、世の中には満足に食べることができずにおなかを空かせて死んでしまうひともいるんだよ、と叱られるたび、給食を残す自分はものすごく悪いことをしているんだ、と怖くなりました。それで無理やり食べる。でも、おいしいとは到底思えない。おいしくない、と感じる自分にまた後ろめたさを覚える……考えてみると、食べられないという感覚は後ろめたさとくっついていますね。

信田 給食というのはもともと欠食児童対策として始まっていますからね。そして現在は、子ども食堂と給食だけで生きている子どもたちが少なからず現実に存在するわけです。そのことと学校という管理システムとが連動していますからね。

「おふくろの味」と普通の日本人

 そうですね。それから「食」に関して私がずっと違和感があるのは、「おふくろの味」っていう……

信田 「おやじの味」とは言いませんよね。それこそわかりやすい「食」と「母」の関係でしょう。日本の国、米。国の母、国母。やっぱりひとつながりですよね。

 「おふくろの味」は懐かしいもの、という通念もファンタジーに過ぎないんじゃないかなって。

信田 『変わる食卓、変わる家族』(岩村暢子著、中公文庫)という、非常に興味深い本があるんです。多数の家族に、毎日の朝ご飯と夕ご飯の写真を撮ってもらい、そこに簡単な解説を書いてもらう。その記録をまとめたものなんですが、この本を見ていると、とくに団塊の世代がまともな食事を作ってないことがわかります。そして、記録を集計して判明したのは、いわゆるおふくろの味なんて誰も作っていやしないということ。朝はほとんど全員バラバラで、ラーメンを食べたり菓子パンを食べたりしています。しかも、たとえばディズニーランドやリゾートに行くために食を削るとか、優先順位が違ってきていて、かつてのエンゲル係数はまったく当てはまらない。なにかの目的のために、食事は本当に最低限にする。あの本を見ると、いわゆるおふくろの味というのは、あきらかに幻想だということがわかる。共同幻想なのか何幻想なのかわかりませんけれどね。

 なるほど、「個食」という言葉もかなりポピュラーになりましたし、「おふくろの味」というのは、家庭の中にはやはりすでに存在していないんですね。海外旅行をしていて、久しぶりにご飯とか味噌汁を食べられると、なんだかほっとすることはありますよね。いつも食べているもの、という安心感がある。そういうとき周囲の人たちが、日本食は最高だ、日本人に生まれて本当によかった、みたいなことを言っているのを聞くと、私はつい反論したくなる(笑)。私は日本人には生まれなかったけど、あなたたちが「日本食」と呼ぶものを私もいつも食べてきたんだよ、って。そんなことまでいちいち、と狭量に思われるかもしれませんけれども。

信田 いえいえ、当然の感覚だと私は思いますよ。温さんのご著作を読んで、そしてまたいまお話を伺っていて、流ちょうな日本語を使い、日本に暮らしながら、「普通」とか「当たり前」とか「日本人」ということに対する違和感というか、ご自身とそれらのあいだの「境界」について、ある年齢からいろいろなかたちでそれを意識されていらっしゃるんですね。それはおそらく、文学をやる上では大きな財産でしょうね。

 本当にそうなんです。さまざまな「境界」について問うことから私は逃れることができません。それは私にとって、制約であるという一方で、先生がおっしゃるとおり、文学に携わる立場としては本当に貴重な財産だと思っています。また、これもまた給食の話なんですが、みんながとっくに食べ終わって教室の掃除が始まっている中で、給食を目の前に、半泣きのまま食べられないでいる。そうするとひとりの同級生がそんな私にすっと近づいてきて、「なんでいつも給食を残すの?」と聞くんです。私は答えられません。自分でも理由がわからないから。するとその子は「台湾人って、何なら食べられるの?」と聞いてきました。私はもう、すごくびっくりしちゃって。その子はクラスでもリーダー格のしっかりした女の子で、勉強もよくできたんです。だからたぶん、非常に素朴な好奇心から出た質問だったんだと思います。私が台湾人であるのは事実ですからね。でも、そう訊かれたときは、突然なにかの線を越えて踏み込まれた感じがしたんです。

信田 『「国語」から旅立って』にも、「なぜ家でユウジュウちゃんにお国の言葉を教えないの?」って温さんのお母さんに聞いてきた女性の話がありましたよね。「せっかくご両親が台湾の方なのに」と。中国語も日本語も中途半端になるのはよくないから、家の中で中国語を強制させないの、というお母さんに対して、彼女が理想的と考える、中国もペラペラなバイリンガルの子どもの話と比較して、「もったいないわねえ」と言うでしょう。そして最後には温さんのお母さんに「あたしは失敗しちゃったのよ」とまで言わせています。あの踏み込み方はすごかった。

 ええ、その女性がなんの悪気も悪意もなく、むしろ善意からそう言っているのは、あの段階で、母も私もちゃんとわかっていました。今でも私はそう思っています。あの場面で示したかったのは、いわゆる「マジョリティ」に属する側が、「マイノリティ」に寄り添うつもりで、そうとは知らずに一方的な見解を述べるときの、こちら側の動揺や違和感についてでした。その一方で、私や母に対してそういうことを言ってしまう人たちの心理をちゃんと想像したいなとも思っています。つまりあの女性の、母や私への不躾な押し付けがましさを批判するのはある意味で簡単なことなのですが、できればそこから先を考えたいんですね。

信田 なるほど。

2019年6月26日/新宿にて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

娘よ、「危険思想」を持て

 私は今、家族をテーマにした新しい小説を書いている途中なのですが、ちょうど「母」と「娘」の関係について、いままでとは少し異なるアプローチでじっくりと取り掛かろうとしているところなんです。その関係を考えているうちに、食事に関する話がなぜか自然と思い浮かんでしまって、そんなシーンも書いていたところなんです。摂食障害を思わせるエピソードではありませんが、やはり母の作る食事を拒否する娘とそれに対して感情的になる母が登場します。

信田 それはたいへん楽しみですね。

 母と娘については、冒頭でお話したように、作家である私にとっての原点ですし、非常に切実なテーマになんです。改めて申し上げるまでもなく、信田先生はカウンセリングを通して、母の側からも娘の側からも、ほんとうにたくさんの知見をお持ちですので、先生の考えてこられた母―娘問題について、少しお話していただけますか。

信田 さっきの温さんのご本の中の女性のお話にも関係するわけですが、周りが疑いもなく発する言葉によって、大きな違和感に苦しむ場合があるわけです。たとえば「娘とはこういうもの」「母とはこういうもの」「母と娘はこういうもの」「家族とはこういうもの」などですね。そういう「本質的」な言語によって定型化されるような母親との関係で苦しむ人たちもまた、ものすごい違和感の中で生き、息も絶え絶えに、すさまじい葛藤を抱えてわたしのセンターにたくさんやってこられる。

 はい。

信田 今日は温さんのお話をたくさん聞きしたいので、思われることがあったら、途中でも言葉を挟んでくださいね。

 ありがとうございます。

信田 娘であるみなさんの年齢はたいへん幅広いのですが、一様に、自分の基盤、ご自身の肯定的な基盤をどういうところに置いたらよいかと聞いてこられるのです。そんなときに私は、「いいですか、あなたたちは危険思想の持ち主なんですよ」とまず言います。続いて、「危険思想を持つということは、非常に素晴らしいことなんですよ」と。そうすると、「え? 私たちが危険思想の持主なんですか?」と驚かれるんですが、「こういうもの」だと世間が決めてかかっている「母」を相対化し、母を拒絶し、時には母と断絶をすることでしか、彼女たち自身の肯定的な基盤は得られないわけですからね。けれどそれは、この国では許されないことなんです。だからこれほどの危険思想はないんです、と言う。国会議事堂に火炎瓶を投げてもいいけれど、母を否定してはいけない。これはまた少し異なるたとえではありますが、あさま山荘事件のときも、人質を盾に山荘に立て籠った青年たちに向けて、お母さんたちが拡声器で語りかける策を講じましたよね。日本のいわゆる転向小説の多くにおいても、母の力は定番でしょう。

 母に背いてはならないということですね。

信田 そうです。本にも書きましたが、母と娘は、あらゆる意味で、「象と蟻」のようなものなんです。蟻が象に歯向かったとたん、ひと踏みでつぶされますからね。そうならないように、母を対象化するためには、言葉で考えなくてはなりません。母を疑うということはよくないことだという世間の根拠のない情緒的なまなざしを、娘自身が内面化してしまっていますから、すごく苦しい。けれどまずはそのことを自覚するために、言葉は非常に重要なのです。

 理不尽な苦しみですよね。そしてそれほど強大な母からの影響というか支配から距離を娘が取ろうとすることは危険思想なのだ、と信田先生はみなさんにあえておっしゃらなくてはいけない。母幻想の強固さに驚かされます。

信田 『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』(春秋社)は2008年に刊行されたものですが、私の仕事上での経験や私自身の価値観でいえば、母と距離を取るとか、もっといえば、縁を切るなどのことも、ある意味で当たり前のことだったんです。だからこの本は、当時の私からしたら何の新しい意味もないと思っていたんですよ。けれど世の中には、そのことを正面から言った本がほとんどなかった。そして私のところにカウンセリングに来られる娘さんたちの後ろには、ここまでたどり着けない娘たちがごまんといる。彼女らはみな母からの支配の被害者ではあるわけですが、なんとかがんばってほしい。この本へのたくさんの反響を受けて、改めてそう感じました。

 その後、いわゆる「毒親」という問題系として展開され、いまに至るわけですね。

信田 「毒親」という言葉は、私は一度も使ったことはないんですけれどね。そして一番腹が立つのが、そうした動きに便乗して、そういう母は境界性人格障害です、などという精神科医です。そういう言説に落とし込むのが私は一番許せません。

 どういう構造で娘が母に絡めとられているのかではなく、母を人格障害だとする。それは私が考えてもひどいなと思います。絡めとられた娘が母を疑い、対象化し、距離をもって事態をみつめることは重要であり、またそれは当たり前のことなのだ、恐れることはない、という提案に対して、母個人の病理なのだ、と言うわけですか。そういう補強の仕方でなにが言いたいのでしょう。

信田 だから母は悪くない、ということでしょうね。病気なんだから仕方がないんだと。

 たとえば、「国民国家」という単位に縛られていたせいで、「普通」の日本人や台湾人からどうしてもズレてしまう自分をなかなか受け入れられずにいたと私が言うときに、そこに安易に乗っかってきて、だからこそ国民国家は幻想でしかないんだよ、と得意げに言ってくる人がいるんです。似ていますよね。

信田 これまた男性に多そうですね。

 確かに、国境になどこだわらず人間として生きようよ、みたいなことを言いたがるのはどちらかといえば男性のほうが多い気がしますね。国民国家も母親的なるものも幻想なのは間違いないけれど、でもその強固な幻想に基づいた「普通」や「標準」による圧力の中で私は葛藤してきました。苦しんだから自分はエライとは全然思いません。でも、私が悩んだ挙句にようやくたどり着いた境地にずかずかと乗っかって、そうそう、国境にこだわるのはつまらないことだよね、などとしたり顔で言ってほしくはないと思ってしまう……

信田 そういう人に限って、ボーダーレスに、とか言うんでしょう?

 ですね(笑)。そしてそういうことを言いたがる人ほど、「ママ語」って素晴らしいよね、っておっしゃる。国際結婚の子どもや、移民の子どもたちの母親は、温さんのお母さんのようであるべきだとか。

信田 昔から、ほんとによくある話よ。お母さんが素晴らしくて、それを素直に受け入れたから、温さんはすくすく素直に伸びたんだと。だからみんなそうしたらいいじゃないかと。それって、一番避けたい結論ですよね。

 私は、自分の母親を否定したいわけではないんです。むしろ、あの母親だったからこそ、この私が育ったというのは事実ですから。ただ、今の私が、母自身や母の言葉である「ママ語」を肯定することによって、移民の母娘はこうあるべきだ、みたいなメッセージとして受けとめられてしまったらと思うと不安で。ちょっと慎重になってしまいます。母親と子どもの数だけ母娘関係ってあるはずで、私と母親の関係はそのうちの一つでしかないのだからと。そのことをもっと強調しておかないと、と思っています。勝手な言い分で恐縮なのですが、信田先生のお仕事と私の問題意識が、まさにこういうところでぴしゃりと重なっている気がしたんです。

信田 とてもよくわかりますよ。私の仕事もそうですが、なんというのか、車と車の間をうまくすり抜けていかなくてはいけないような……そうしないと自分が轢き殺されてしまうというか、いろんなことにまんまと利用されてしまう。

 本当にそうですね。私は、日本文学よりも翻訳文学を読むほうが好きなのですが、その中でも特に移民の作家に親近感を抱くんです。例えばインド系アメリカ人のものとか、中国系の作家が書くものとか。いろいろなルーツをもつさまざまな作家が、英語で書くという状況はすごく面白いんですよ。いわゆる「白人」が主流の社会で、移民である自らが「マジョリティ」からどのように眼差されてきたか、とか、その眼差しに対しどんなふうに応答してきたか、ということを彼らは書く。

信田 カズオ・イシグロはかなり別格みたいな感じなんでしょうか? 

 カズオ・イシグロは、もはやイギリスが誇る作家ですね。そのイシグロも、日本とイギリスのどちらにも距離を感じると発言している。でも彼のように生まれた場所と自分が育ってきた環境との間を見据え、そこから言葉を紡いでいく、という発想は、今や世界ではそれほど珍しいことではないのです。

信田 日本がそれに慣れていないんですね。

 「定型文」の罠

 ええ、そう思います。日本文学の、とくに「純文学」とよばれる分野の書き手は大多数が日本人です。私がデビューしたときも、内容以前に出自のほうを注目する方が少なからずいました。私としては、主に文章、文体を工夫することで「国語」に抗って書いたつもりでも、ストーリーの次元では「マイノリティ」が書くものとしては非常に典型的だったせいでもあるのですが。つまりそれは、日本人ではない主人公が、限りなく日本人に近い心情で生きているのに本物の日本人と認められず、疎外感を覚えるという……いわゆる「マジョリティ」に対して「マイノリティ」が語るときの定型そのものだったんです。「私はこんなにも傷ついてきました。でもがんばります。どうかこんな私を受け入れてください」というような。「マイノリティ」がこう書けば、「マジョリティ」にとっては、よしよし受け入れてやろうか、となりやすいんですよ。

信田 そういう風に言ってほしいわけね。

 ですから、私の本当のたたかいはデビューしてからなんです。出自のことを素材にしつつも、それを書く上で定型化にいかに抗うべきかという……読み手に「日本人ではないせいで、かわいそうな目に遭ったね。よくがんばったね。あなたが日本人ではなくてもぼくはやさしく受け入れてあげますよ」と言わせるようなものは書きたくない。

信田 私たちの業界でも似たようなことはあります。つまり、苦しんでる人たちに対する安易な救い方みたいな言葉ですね。私が一番不快に思うのは、どうにも安心感も得られなくて自己肯定感が低くて苦しいんだと言う人がいる。それに対して、安心安全な場所から、もう一回こうこうこうして自己肯定感を高めましょう、というようなものです。自己肯定感といえば一見誰もが納得しそうな気がするかもしれませんが、言葉の遊びのようにしか感じられません。けれど、ネット上にはそういう言葉が溢れかえっています。だから、いかにしてそういう言葉を使わないかと考えます。言葉は勝負、勝負は言葉だと思っているので、こういう安易な言葉は、ほんとうに嫌なんです。

 そういう安易な言葉を投げかけられることでとりあえず安心できて、そこから自力で自分の言葉を見つけられる人の場合はまだいいんですよね。お聞きしていて私が不信感を覚えるのは、そんなふうなことさえ言っておきさえすれば、まずは助けてやった感が出ちゃうということ。それがすごい嫌ですね。

信田 助けてやった感、ね。

 ええ。逆に言えば、私の書いたものを読んで「在日台湾人のくせに屈折が足りない」と言ってくる人もいて(笑)。こういう人は、日本人ではない私を「おれが助けてやる」と思っているんでしょうね。だから私のことを定型的なマイノリティ像にはめ込みたい。

信田 グループカウンセリング中にはメンバー同士でいろいろな話をするのですが、こんな感想の言葉がよく出るのです。たとえば、だれだれさんはすごく強い人だなと思いました、とか。言っているほうは褒め言葉のつもりなんでしょうが、言われたほうはいやだろうし、聞いていて、本当にがっくりくるんです。DV被害者のグループでも同じです。だから、正しいとか間違っているとか、強いとか弱いとか、客観的ですねとか、絶対そういう言葉を使わないでくださいね、とお願いするんです。ここでは客観性の代わりに対象化という言葉を使いましょうとか、あえて強く言論統制するんですよ。そうしないと、いつのまにか定型的な被害者像に組み込まれてしまうんです。そうならないよう、あえて使わない言葉を決めますのでどうかご理解くださいね、と説明するとみなさんわかってくれますけれど。

 私が定型文について申し上げたこととリンクしてくるお話だと思いました。私が定型文をはぐらかしたいと思うのは、そこに収まることで先が見えなくなるのがすごく怖いからなんです。ちょうど先々週、小中学校の教員たちを対象とした研究会で基調講演をさせていただく機会がありました。今、学校の現場では外国出身の子どもたちがどんどん増えていて、そういう子どもたちに日々接する先生方にとって、元「外国出身の子ども」としての話をぜひ聞かせてほしいというご依頼だったんです。それで私は自分が小中学校の頃に、先生にしてもらって嬉しかったことなどを中心に一時間ぐらい話しをしてきたんですね。講演後、ある方がニコニコしながらこんなふうに言ってくださったんです。いままでこういう場にいらしてくださった方々のお話は、大変でした、苦労しました、困りました、というお話が主で、それはまちがいなく大事な話なのだけれど、そうであるからこそ、「普通」の日本人である自分はお話をお聞きしながら、ただただ恐縮し、反省するしかなかった。でも今回は、これから自分たちには何ができるかと考えるためのヒントがあって、とても前向きな気持ちになりました、と。私、とても嬉しくて……。

信田 よくわかりますよ。温さんはさきほど、マイノリティの定型化、フォーマット化によって先が見えなくなるっておっしゃっていましたよね。そう、先が見えなくなるんですよ。本当はその視点からもっと全体を、それこそ国家をはじめ、見ていくべき構造があるはずなんですが、それを遮断してしまう。本当にかわいそうな人だよねえ、大変でしたよねえって、情緒のレベルで消費して終わってしまう。そういうことは実は性暴力の場合でもDVの場合でも母と娘の問題でも起こりうるんです。私の仕事でもいちばん大きな課題といいますか、私はそこに必死に抵抗してるつもりなんだけれど、やはりなかなか通じない。

 そうなんですよね。「マイノリティ」同士が「マジョリティ」の悪口をひたすら言い合うことで連帯するという状況に引っ張り込まれるのが、昔から苦痛だったんです。一緒に小さな籠を作って、その中から、外の世界がひどい、だから私たちはここで一緒にいるしかない、みたいになってしまうのってつまらないなと思うんです。私はその籠自体を疑いたいんです。でもそう考える人は意外に少なくて、ずっともどかしい気持ちがあったんです。

信田 60年代末の学生運動を思い出しますよね。同じようなことを考えていても、どうしても党派性が出てきます。で、そんな仲間と一緒にデモに行こうよ、といっても、何か違う感じがするという。

 持たざる立場同士でつながると、その中でまたすべてを一枚岩にしていってしまう小天皇が生まれてしまうんでですよ。その小さな世界の中に。

信田 そういうものね。

 そして連帯することが目的になってしまうことで周りが見えなくなって、どんどん周囲との断絶が生まれてしまうのが悲しい。自分は「マイノリティ」なのだと思いたがっている人たちが、否定的な意味で「マジョリティ」と呼ぶ人たちとも私はつきあいたいし、できれば仲良くしたい。残酷な言い方かもしれないけれど、そういう「マイノリティ」でありたい人たちって、自分の周囲との馴染めなさを直視するのが怖いんだと思うんです。その馴染めなさを自分の属性のせいにしてしまえば、本当の問題から目がそらせる。たとえば、自分は日本人じゃないからいろんなことがうまくゆかない、みたいな。でも私は、同級生とぜんぜん話が合わずに居心地が悪かったとか、彼氏に理解されずに喧嘩になったとか、そういう馴染めなさの原因はすべて「自分が台湾人のせいだ」と思って開き直るのは嫌なんです。「台湾人」という属性は自分の一部でしかないのだから。もちろん「台湾人」であると言う側面を切り取って差別的なことを言われたと感じた時は、真正面からたたかいますが。

                       

 「母」は国家における中間管理職である

信田 温さんのいまおっしゃった、馴染めなさを認められない、ということを、「母」と「国家」は連動する、という私の文脈というか、仕事での経験を含めた確信でいうなら、私の知るところの女性たちは、結婚して母になり、意図せずして専業主婦とか、パートタイマーとかになったとき、何かがつらいと感じている。けれど、やはりそれを見つめられないんです。だからどうせ女なんて、男なんてと言ってみたり、〜ちゃんのママはこうだよね、みたいな感じで、差し障りのないようなかたちでソフトに否定したりする。要は、母という権力にしがみつくわけです。馴染めなさを見つめられないということ、私は非常に重要なポイントだと思いますね。多くの母はやはり見つめられない。だって母って、国家における中間管理職ですからね。

 母は国家における中間管理職……まさに。そしてそれをもっと広げて考えるならば、わたしは今、天皇制についてとても興味をもっているのですが、天皇制は、植民地支配においてものすごく強い力を持ったわけですけれど、これは父なる天皇だけでは成立しないと思うんです。母としての日本語というものがあるのではないかと。というのも、上田万年という人が、日本語は日本の天皇の臣民の血液だ、という言い方をしたんですね。これは実際の資料に残っている言葉で、わたしはイ・ヨンスクさんの書かれた『「国語」という思想――近代日本の言語認識』(岩波現代文庫)という本から知ったのですけれども。同じ母の腹から生まれた同士、同じ血が流れる同志として、国語をみんなで共有しようという動きが明治のときにあったんだと。

信田 天皇の赤子ということ?

 ええ、みな同じ赤ん坊として、日本語という血液を共有するもの同士なんだと。ここでは母なるイメージが使われていますよね。私がこのことに対して思うのは、いわゆる権力者を敵とみなさず、恋い慕うような形にすべく、母なるイメージを利用したんだなということです。植民地の人からしたら、上からやられたというよりは、母を敬い、恋い慕うような形で、自発的に「日本人」になることを強いられた。この時に使われる母なるイメージってなんだろうかと。母なるものというのは、大地礼賛とか、広く寛容なイメージで使われるわけだけれども、そもそも母なるイメージって一体どこから来てるんだろう、そんなことを最近よく考えるんです。

信田 母なるイメージというのは、苦悩というか忍耐というか、そういうものと共にある気がします。絶対的な母なるものというのは、こちら側に「申し訳ない」という気持ちを生じさせるものですよね。自分がこんな人間だから、こんなに苦労かけてすみません、というものをどこかに含みこんでいる。広い大地というイメージではなくて、もっと暗くて、自分が迷惑かけてごめんなさいって。これが母なんですよ。天皇って女性的なものなんでしょうかね。

 父親的なものを支える母、というイメージだったんじゃないでしょうか。

信田 そうですね……。じつは私もずっと天皇制に関心をもっています。原武史さんの一連の著作や、大塚英志さんの『感情天皇論』など、とても勉強になります。大塚さんの、天皇は感情労働者だという説はとくに興味深い。なんといっても、「お気持ち」ですからね。

 なるほど。私、不勉強で拝読していませんが、感情天皇論、か……はじめてお聞きしました。

信田 明治天皇がいくらおヒゲを生やしても、そこにあるのはすごく女性的なものだし、平成天皇なんてもっとそうなんでしょうね。

 そうでしょうね。

信田 そして「令和」なんて、ある意味では雅子さんの時代ですよね。あんなに宮内庁に苦しめられたのに、トランプとガチンコで会話する、せんだっての、あのお姿……。

 私も、そのお姿には涙が出ました。雅子さまが本来の輝きを取り戻されたと(笑)。あの方は元々、超がつくキャリアウーマンでしょう。それなのに「世継ぎを産め」とばかりのプレッシャーに晒されながら、実力を発揮する機会をずっと剥奪されてきた。病気になられるのも当然ですよ。言うまでもなく「天皇制」そのものを素朴に肯定することはできません。しかし、「天皇」を支える存在として自分が担わなければならない難しい役割を果たそうと努めている雅子さんや、この前までの美智子さんを見ていると、つい応援したくなってしまう。そんなふうに言う女性は私の周りにも案外多いんです。だから「皇后」という存在は、ある意味、日本の女性の苦しみを「象徴」しているのかもしれませんね。考えてみれば非常にグロテスクな状況でもありますが。

信田 母なるものへの犠牲というものが裏にありますよね。そしてそれはもう、いわゆる共依存的な関係でもあるわけです。かつて私は、『苦しいけれど、離れられない 共依存・からめとる愛』(朝日新聞出版)という本を書きましたけれど、共依存というのは、自覚がないんです。最初のほうでお話ししましたが、岡崎京子さんの漫画には主人公ではないけれど、摂食障害の女の子も出てきますよね。骸骨とかも出てくる。それで、この作品をまったくわけがわからないとか気持ち悪いとか、私とさほど年齢の変わらない、摂食障害の娘の母たちが平然と言うのを聞いたとき、この人たちなぜこんなふうになってしまったんだろう、と。どう考えてもやはり彼女らにも青春だってあっただろうし、そこそこ学歴もある人たちなのに、あんなに苦しい、血のにじむような漫画を読んで、なぜそう言えるのか。娘の足を引っ張り、わからないものに対して気持ち悪いと言い放つ神経。引っぺがしてしまえば、そんな母です。そして娘たちはそこから逃れられずに共依存の関係とは、これいかに。

 そもそも母たちは理解ができないから理解しようとしないのか、理解することで何か自分が崩れ落ちるのか。

信田 そこまでいったら上等だと思うんですよ。何か不穏なものを感じて避けるとか、そういうことですらない。

 でも、「気持ち悪い」ってひどすぎますよ。「わからない」のは仕方ないとしても、その「わからなさ」に対して言葉を尽くす努力を放棄するのはおかしい。そういうお母さんたちって、娘や、娘との関係に対して自分の言葉で考えるというか、対象化しようとは考えないのでしょうか?

信田 自分の言葉を持ったり使ったりしたら家族は成り立たないと思っているんじゃないでしょうか?

 そういうことなんですね……。

                       (8月中旬更新の後編に続きます)

 

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著者略歴

  1. 温 又柔

    1980年、台北市生まれ。小説家。3歳から東京在住。法政大学大学院・国際文化専攻修士課程修了。2009年、「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞し、作家デビュー。両親はともに台湾人で、日本語、台湾語、中国語の飛び交う家庭に育つ。創作は日本語で行う。著作に、『たった一つの、私のものではない名前 my dear country』(Happa-no-Kofu, 2009年)、『来福の家』(集英社、2011年、のち白水社、2016年)、『真ん中の子どもたち』(集英社、2017年)、『空港時光』(河出書房新社、2018年)、『台湾生まれ 日本語育ち 増補版』(白水社、2016年、日本エッセイストクラブ賞受賞、2018年に増補版刊行)、『「国語」から旅立って』(新曜社「よりみちパン!セ」、2019年)など。2019年、「文学作品を通じて、複数の文化をルーツに持つ子どもの豊かな可能性を示すとともに、日本語や日本文化の魅力を広く発信し、国際文化交流及び多文化共生社会の実現に大きな貢献をしている」として、文化庁長官より表彰。

  2. 信田 さよ子

    臨床心理士、原宿カウンセリングセンター所長。
    お茶の水女子大学大学院修士課程修了。駒木野病院勤務などを経て、1995年原宿カウンセリングセンターを設立。母と娘の間に生じる根深い問題をはじめ、アルコール依存症、摂食障害、ひきこもり、ドメスティック・バイオレンス、児童虐待などに悩む人たちなど、広く家族の間に生じる問題を中心に数多くのカウンセリングを行う。またその経験から、それらの問題を社会および歴史的構造との関係性の中で分析すると同時に、新たな家族のあり方を探り、提言、提示を行い続けている。著書に『アディクションアプローチ』『DVと虐待』『カウンセラーは何を見ているか』(以上、医学書院)、『加害者は変われるか?――DVと虐待をみつめながら』(ちくま文庫)、『依存症』(文春新書)、『依存症臨床論』(青土社)、『アディクション臨床入門』(金剛出版)、『母が重くてたまらない・墓守娘の嘆き』『家族のゆくえは金しだい』『<性>なる家族』(春秋社)、『母・娘・祖母が共存するために』(朝日新聞出版)、『増補新版ザ・ママの研究』(新曜社「よりみちパン!セ」、2019年)など。

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